ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(6)

第二章 パスケルの遺言(その2)

 「仰せの通り、今回の戦いで我が国は常に後手に回っております。」カンスキーは言う。
 デクター領の北の果て、タンネビッツ川の東岸に位置するシェボドゥマルの港は、「塩の港」を意味するその名の通り、北の山あいにあるシェボンプルの塩坑から掘り出された岩塩の積み出し港としてウェスガー家が支配していた土地だったが、三年前、この地の守将がカンスキーの調略によりデクター家に寝返り、奪還のため派遣されたウェスガー軍も彼の奇策により撃退されて、以来、ウェスガー領内に食い込む形でデクター家の支配下にあった。
 そのシェボドゥマル地方をウェスガー軍が急襲したのは、この地に早い冬が訪れる昨年の十一月、ティルドラス率いるハッシバル軍がツクシュナップ郊外の戦いでバグハート軍を退けたのとほぼ同じ時期のことだった。
 優秀な忍びの者を多数抱え、情報収集能力には定評のあるデクター家であるが、この時のウェスガー軍の動きを事前に察知することができず、完全に虚を衝かれる形となった。もともと北方では冬季の戦いは避けるのが常識で油断があったことに加え、兵力を目立たない小部隊に分けて別々の道から密かに攻撃地点に集結させ、集結後も巧みな分散・偽装を行って敵の目を欺いたディディエの作戦が的中したのである。
 シェボドゥマルの街はたちまちウェスガー軍の手に落ち、それを再度奪い返すためデクター領内各地から集められた兵力が北へと向かう。だが、その隙を突いて、今度はディディエ自らが率いるウェスガー軍の本隊が、守りの手薄になった国境地帯の中部、リュイバンチスの城に、タンネビッツ川を渡って押し寄せる。
 寒さが強まるこの季節、酷寒の中での兵の移動は、燃料や防寒装備の調達と輸送に多大な時間と手間を要し、移動中に凍死する牛馬、凍傷や病気で戦闘不能となる兵士も多く、援軍を送ることもままならない。さらに追い打ちをかけるように、他国の動きを探っていた忍びの者から急報が入る。南側に隣接するトッツガー家が兵を動かし、国境にあるデクター領の諸都市を脅(おびや)かす動きを見せているというのである。おそらくウェスガー家との間で密かに盟が結ばれていたのだろう。
 「このままでは、我々は、北方のシェボドゥマル、中部のリュイバンチス、南のトッツガー家との国境という三方面での戦いを強いられることとなります。残念ながら、その全てで勝利する手立てはございませぬ。」カンスキーは続ける。「今、我が国が行うべきは、シェボドゥマルの奪還を断念して全力でリュイバンチスのウェスガー軍を退け、しかるのち軍を返して南のトッツガー家に当たることかと存じます。シェボドゥマルへと向かっていた軍にはすでに急使を送り、反転して南の国境に直行するよう命じております。」
 「勝算はあるのですか? 軍師。」カッツォールの傍らに腰掛けた、年の頃は四十あまり、上品な物腰の女性が言う。宰相・ルミナ=チャン。この時代のミスカムシルには珍しい女性の宰相で、デクター家の先代・ハールーンの妹、カッツォールの叔母に当たる。夫のヒルシュ=チャンは宰相としてハールーンが全幅の信頼を置く人物だったが、ハールーンの死後一年で病没し、以来、彼女が若年の甥・カッツォールを補佐して国政を司ってきた。ハッシバル家の摂政であるサフィアに近い経歴と言ってよい。
 もっとも、為政者としての能力はサフィアとは桁違いで、大国・デクター家の百官を指揮して国政を円滑に行い、特に経済政策に優れていたと『ミスカムシル史大鑑』は伝えている。中でも彼女の最大の業績とされるのは、財政難を補うために一時検討された、質を落とした銅銭の大量発行を行う案を退け、逆に、領内の金山から採れる金を基準として額面と実際の価値を一致させる通貨制度を採用したことである。これにより、当時デクター家の発行する貨幣は全ミスカムシルで最も信用の高い通貨としての地位を保っていた。
 「はい、宰相。」彼女の問いにカンスキーはうなずく。「幸運にも、ウェスガー軍が各地の鉱山の鉱夫と坑道を掘る道具をリュイバンチスへと送り込んでいることを、忍びの者が探り当てて参りました。おそらくウェスガー軍は、坑道を掘って城内へと突入することを考えておるのでしょう。」
 「それは由々しきことではないか。リュイバンチスの兵は少なく、この寒さの中、援兵を送ることもままならぬ。たとえ敵の手の内が分かったとしても、それを防げるものなのか?」とカッツォール。
 「実は以前より、坑道の中の敵に対して絶大な威力を発揮する兵器を極秘裏に作り上げ、重要な城に配しております。今こそ、その力を使うべき時。その旨、伝書鳥でリュイバンチスのカニエにも伝えております。」カンスキーは言う。「ディディエは無謀な戦をする男ではございませぬ。坑道による突入が失敗したとなれば、寒中に長く兵を置くことはせず、シェボドゥマルの奪還のみを戦果として兵を引くはず。それによって、我が国は後顧(こうこ)の憂いなくトッツガー家と対することができましょう。いずれにせよ、全てはリュイバンチスの戦況にかかっております。」
 その翌日、ここリュイバンチスの地下では、ウェスガー軍の掘る坑道が、今まさに城内へと達しようとしていた。
 「測量の結果が正しければ、坑道は城の西の出丸の地下、兵糧庫か武器庫の中へと通じるはず。」坑道の中で突入の準備を整えて待つ兵たちに向かって指揮官が言う。「直ちに城内へと突入し、同時にアザーヒン将軍率いる本隊が地上から城へと攻撃をかける。敵は小勢だ。我らの勝利は疑いないぞ!」
 その言葉が終わらぬうちに、振り下ろされた鶴嘴(つるはし)が石積みの壁を突き破り、人の頭が通るほどの穴が開く。
 「開いたぞ!」あちこちから上がる声。
 「鉱夫ども、穴を広げろ! 伝令、地上の軍師にお報せしろ! 兵は突入に備えよ!」指揮官の指示が飛ぶ。
 その時だった。
 開いた突破口から、何かが腐ったような、鼻をつく臭気を持った気体が坑道内へと流れ込んでくる。その気体が穴の中に立ちこめたかと思うと、突入の合図を待っていた将兵が喉をかきむしって苦しみ始めた。
 ――何だこれは!?――
 ――息が、息ができん!――
 ――苦しい!――
 ――た、助けてくれ。――
 断末魔の呻きと共に、身をよじらせながら折り重なって倒れ、そのまま動かなくなる坑道内の兵士たち。そのまま長い時間が経ち、やがて、それまでの異臭に替わって新鮮な空気が突破口から流れ込み始めた。しばらくその状態が続いた後、長い竹竿の先に吊り下げられた一つの鳥かごが城内から穴の中に差し入れられる。
 「鳥が騒ぐ様子はない。毒気は薄れたようだ。上将軍、おいで下さい。戦果の確認を!」穴の向こうの城内で叫んだのは、雑号将軍のカーベック=イフワールだった。カニエの配下の一人として、この城の副将を務めていたのである。
 彼の声に応じて、城の主将であるカニエが穴へと歩み寄る。鳥かごが城内へと引き戻され、代わりに竿の先に吊り下げられたランタンが穴の中に差し入れられて周囲の様子を照らし出す。
 「見ろ、死体の山だ! 一人として生き残っておらん!」坑道の中をのぞき込みながら高笑いするカニエ。「大したものではないか、硫黄の毒気の力は。どうせなら、この毒気を敵の城や街に流し込んで城兵や住民どもを皆殺しにするような使い方ができぬものか。」武勇に優れ、侠気(おとこぎ)にも溢れた人物として声望の高かった彼であるが、一方で極めて冷酷残忍な性格でもあったと『ミスカムシル史大鑑』は伝えている。
 硫黄の毒気――我々の世界でいう亜硫酸ガス、つまり二酸化硫黄である。比重が重く地下深くに流れ込むこの気体を、助燃剤を混ぜた硫黄を燃やして大量に発生させ、鉱山の換気に利用される送風機で坑道内へと送り込んで中の人間を中毒死させる――。カンスキーが極秘裏に開発させた兵器とはこれのことだった。ミスカムシル史上初めての、記録に残る化学兵器の使用である。
 坑道内の兵が全滅し地下からの突入が失敗したことを知ったディディエはただちに全軍に撤退を命じた。ほどなくウェスガー家から停戦の使者が送られ、デクター家がシェボドゥマルを放棄することを条件に両国の間で和議が整う。デクター家が全力を挙げて自分たちと戦う態勢を整えたことを知ってトッツガー家も兵を引き、戦は拡大することなくそのまま終わる。
 一つの戦いが始まり、三月(みつき)とたたぬうちに終結した――。戦国の世には、ありふれた小さな出来事に思える。だが、この戦いの持つ意味が単なる一つの戦の帰趨だけではないことに、具眼の士は気付いていた。

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