ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(14)

第三章 二都の角逐(その5)

 翌日、ティルドラスはわずかな供回りとともにメルクオの籠もっていた砦を訪れ、彼に案内されながら、砦から退去する準備に走り回る兵士たちに自らねぎらいの声をかけて回る。彼の様子を遠目にうかがいながら、仲間同士でささやき交わす兵士たち。
 ――しかし驚いたな。あんな身軽な格好に少ないお供で、昨日まで敵だった俺たちのところに気軽にやって来るとはよ。――
 ――それだけ信用して下さってるってことじゃねえか。これにお応えしなけりゃ、男がすたるってもんだ。――
 ――メルクオ将軍にも、まるで長年仕えた腹心の部下みてえな穏やかな物言いだよな。言っちゃ何だが、メイル子爵なんか、何かと言えば頭ごなしに将軍を馬鹿にするだけでよ、見てて胸くそが悪かったぜ。――
 彼らの視線の中、ティルドラスとともに砦の内部を見回っていたリーボックが言う。「私の見ますところ、この砦は、マクドゥマルの守りとするには互いに連絡も悪く、特に高台にあって水の補給がままならぬのが大きな欠点でございます。砦として残しても益は少ないのではないかと。」
 「同感でございますな。むしろ、この場所には物見台だけを残し、兵力と物資はユックルの城を修理してそちらに集約する方が宜(よろ)しゅうございましょう。」頷くメルクオ。
 「それを知りつつこの砦に籠もったということは、実は、最初から戦う意思などなかったのでは?」メルクオを見やりながら微笑するリーボック。
 「さあ、どうでしょう。ご想像にお任せします。」彼の言葉にメルクオはへらへら笑いながら答えた。
 砦の検分を終えて帰る途中、少し急な下り坂に差しかかったところで、何に驚いたのか突然ティルドラスの乗った馬が走り出し、勢いよく坂を駆け下っていく。部下たちが慌てて追いかけたものの、馬の足は速く、たちまち引き離されてしまった。
 走り続けた馬は、そのまま下り坂を駆け抜け、小さな川に沿った平坦な道に差しかかったところでようやく落ち着き、いくらか歩を緩める。馬をなだめながら手綱を引き締め、歩みを止めるティルドラス。
 「ここは……?」見回せば、あたりは林と畑が入り交じった人気のない田舎道。とりあえず馬から下り、道ばたの大きな石に腰掛けて、部下たちが追いついてくるのを待つことにした。
 一人になってみると、忘れていた心配事が次々と頭に浮かぶ。何をどうしたら良いのかさえ分からない数々の問題。自分が去った後のこの地の民の行く末。さらに、ネビルクトンに帰ってからも山のような難事が待ち受けているはずである。
 『天の時と地の利、その中にあって人が取るべき道、か。』かぶりを振りながら大きなため息をつくティルドラス。
 「どうなさった。道に迷ったかね? それとも、誰か人をお探しかい?」突然声をかけられて、彼は顔を上げる。見ると、小川のむこうの畑の中から、一人の農婦がこちらを見つめていた。身の丈は五尺そこそこ。深い編笠を目深にかぶっており顔立ちはよく分からないが、風体からしてかなりの年配のように見えた。編み笠の下にのぞく漆黒の肌色の中、笑みを浮かべた口元に白い歯が見えている。
 「いろいろと迷い、道を示してくれる賢者を探しています。」自嘲するような口調で答えるティルドラス。「どなたか賢者に心当たりはありませぬか?」
 「賢者、かい?」農婦は言う。「賢者って賢くて偉い人のことだろう? 他の土地のことは知らないけど、このあたりなら、まあアンティルさんだろうね。」
 「アンティル?」目を見張るティルドラス。
 「ペジュン=アンティルさんだよ。もとバグハート家にお仕えでね、諌大夫だか何だかって官についてたそうだけど、バグハート家が亡びて、今はこの田舎に引っ込んで暮らしてるよ。」
 「どのような人物でしょう?」
 「お医者さんなんだけど、他にも大変な物知りでね。作物の作り方とか、いろいろと便利な道具だとか、あちこちの国の珍しい話だとか、訊けばいろいろと教えてくれるよ。」
 「実は、その人物のことは耳にしていました。ただ、人によって言うことが違っていて迷っているのです。」
 「それなら、自分で会って確かめてみればいいんじゃないかねえ。他人の評判であれこれ迷うよりさ。」と農婦。
 「……もっともです。」一瞬考え込んだあと、ティルドラスは深く頷く。
 「アンティルさんの家なら、この川に沿って、しばらく川下に行ったところにあるよ。午前中は病人を診てることが多いから、会って話を聞くなら午過ぎからかねえ。」
 その時、坂の上の道から一騎の人影が駆け下ってきたかと思うと、彼の姿を認めて声をかける。「ここにおられましたか! ご無事で何よりでした。」サクトルバスだった。
 「サクトルバスか。今ちょうど、そちらのご婦人に話をうかがっていた。ご婦人、もう少し話をお聞きしたいのだが――」言いながら、もう一度小川のむこうに目をやるティルドラス。だが、その時にはもう、農婦はどこに行ったのか、姿が見えなかった。
 百年ほどのち、この時の出来事を歌った童謡が世間で広く歌われていたといい、『ミスカムシル史大鑑』詩篇書にも収録されている。

  国主の位に就いてはみたが
  国は傾き倒れる間際
  民の嘆きは天地に満ちる
  誰も自分を輔(たす)けてくれぬ
  どこかに賢者が隠れて居ぬか
  ティルドラスさまは大弱り

  威張ったお役人に尋ねてみれば
  何の誰々が良いと言う
  喜んでお城に招いてみれば
  虎狼(とらおおかみ)が朝服(やくにんのふく)を着てるよう
  これでは輔けになりはせぬ
  ティルドラスさまは大弱り

  気取った学者さんに尋ねてみれば
  誰の何々が良いと言う
  喜んでお家を訪ねてみれば
  猿猴(えてこう)が儒冠(がくしゃのかんむり)を着けてるよう
  これでは輔けになりはせぬ
  ティルドラスさまは大弱り

  百姓のおばばに尋ねてみれば
  アンティルさまが良いと言う
  草の庵を訪ねてみれば
  その知恵、神様が天下ったよう
  これこそ探した王者の輔け
  ティルドラスさまはお喜び

  天下を平らぐ王者の輔け
  威張ったお役人に訊ねてみても
  気取った学者さんに訊ねてみても
  誰も知らなかったアンティルさまを
  百姓のおばばが教えてくれた
  ティルドラスさまはお喜び

 のちにティルドラスは何度となくこの時の農婦を探し求めたが、賞金さえかけたにもかかわらず、なぜか彼女は二度と見つかることはなかった。
 きっとそれは、天の神様が人の姿をとって、彼を導いてくれたに違いない……。人々はそう語り合ったという。

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