ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(7)

第二章 パスケルの遺言(その3)

  * * * * *
 リュイバンチスの戦いの詳細は密かに、しかし非常な速さで天下に広がった。
 そして今、その報せを持った一人の男が、マクドゥマル郊外の街道を足早に歩いている。
 「ハッシバル家との戦いに巻き込まれなかったか心配したが、その前にメイル子爵の不興を買って宮廷を追われていたか。ともあれ、難を逃れたのは何よりだった。」歩きながら男はつぶやく。年の頃は四十を少し過ぎたあたり、黒髪で中背、藍染めの旅装束に藁で編まれた笠をかぶっている。その下の顔立ちは一見平凡だが、その眼には何とも表現しがたい英知の輝きが見て取れた。「このあたりのはずだが――。そこのお二人、少々お尋ねしたい!」道のむこうからやって来た二人連れの農夫に声をかける男。「このあたりに、以前バグハート家に仕えていたペジュン=アンティルという人物の家があるはずだが、ご存じありませぬか?」
 「お医者のアンティル先生のことかね?」農夫の一人が言う。
 「医者で学者で工匠で文士で、私塾を開いて子供たちを教えてもいるはずですが。」
 「ああ、それなら間違えねえ。あそこの松の木がある四つ角を右に曲がって、しばらく行くと川があって橋がかかってるからな。それを渡ってすぐの所を左に曲がって、そのまま川沿いに少し行ったあたりだ。屋根の上によく分からねえ変な機械が乗っかってるからすぐ分かる。」
 「お友達かね?」もう一人の農夫が尋ねる。「あんたもお医者さんかい?」
 「友人ですが私は医者ではない。同じ師について学問を学んだ仲間です。」
 「そうかい。アンティル先生に会ったら礼を言っといてくれ。今までどこの医者に診(み)せても良くならなかったうちの甥の病気が、アンティル先生にもらった薬ですっかり良くなってよ。」
 「なるほど、彼ならば、医者としても、それくらいの腕は持っているでしょう。会ったら伝えておきます。――では。」農夫たちに会釈し、男は再び歩き出す。
 教えられた通りに道をしばらく行くと、やがて行く手にそれらしい家が見えてきた。「なるほど、天体観測の装置か。相変わらずの多才ぶりだな。」家の屋根の上に乗った複雑な機械を見上げながら、男は足を止めてつぶやく。「患者たちからも信頼されているようだ。このまま俗事に煩(わずら)わされず、この地で静かに暮らす方が、君にとっては幸せなのかもしれぬが――。」
 その家の中では、今、アンティルが、助手の少年とともに工房で何かの作業に没頭していた。少年の名はキノト=ルーファン。アンティルが引き取って世話している戦災孤児たちの中ではアルシアに次ぐ年かさの十四歳である。後に希代の発明家として『ミスカムシル史大鑑』工匠列伝にも名を連ねる人物で、この歳ですでにその才能の片鱗を見せており、こうやってアンティルの手伝いをしながら、自分自身の発明もいくつか手がけていた。
 二人の目の前には、高さ一尺(ほぼ30センチ)ほどの、竹で編まれた深い籠が桶の中で回転する機械が置かれている。「軸受けの強度が問題だな。この部分が弱いと、籠の中身の重さに偏りができた時に簡単に壊れてしまう。」籠の回転の様子を子細に眺めながらアンティルが言った。
 「かといって、軸受けを大きくしすぎると扱いにくくなります。籠の形を工夫して、中身に偏りが起きないようにできませんかね。」とルーファン。
 「先生、お客さまです。」そこにアルシアが外から駆け込んでくる。「フィンケルさんです。」
 「フィンケル!?」椅子から立ち上がり、目を見張るアンティル。「来ていたのか!?」
 その言葉が終わらぬうちに 先ほどの男が、笠を取りながら工房の中へと入ってくる。「お邪魔する。一年半ぶりだな。」
 ガルバ=フィンケル。アンティルとは同じ師について学んだ同門の友人である。師の名はバルテオ=パスケル。この人物については今後も折に触れて述べることになるが、科学技術や思想など広い分野にわたって巨大な足跡を残しており、特に、ミスカムシル史上初めて「科学」の概念を確立したことで名高い。
 流浪の人生を送り、時には詐欺師や妖術師呼ばわりされて逃亡を余儀なくされたこともあって、生涯にわずかな数の弟子しか取らなかったパスケルであるが、才能・見識ともに卓越した七人の弟子がおり、うち、アンティルを除いた六人が『ミスカムシル史大鑑』の「パスケル六高弟列伝」に名を留めている。
 その一人がこのフィンケルである。化学の分野でも数々の発見をした人物であるが、特に電気と磁気の研究で残した業績の大きさは、ミスカムシル史上、他に類を見ない。自作した手回し式の摩擦発電機を駆使して現代の我々から見ても驚嘆するほどの予見性と創造性に満ちた実験を繰り返し、

一、電気の本質は方向と量を持った流れである。
二、あらゆる物質は、電気の通しやすさ、帯電のしやすさなど、それぞれ固有の電気的な性質を持つ。
三、電気の力は磁力・運動・化学反応などとの間で可逆的な変換が可能である。また、電気の力は熱・光に変えることもでき、熱・光を電気に変えることもおそらく可能である。

という、のちに「フィンケルの三法則」と呼ばれる発見を成し遂げたほか、有毒な水銀を使うアマルガム法に替わる方法として電気による鍍金(ときん。メッキ)の技術を確立し、雷の正体が大気中の放電現象であることを突き止め、ミスカムシル史上初めて実用的な化学電池を作成し、「雷電瓶」と呼ばれる蓄電装置(我々の世界のライデン瓶と似た、一種のコンデンサー)や避雷針を発明するなど、一人でこの分野の進歩を数百年は早めたとされる。
 「いい家だ。それほど高くはなかったと聞くが、掘り出し物だったな。」勧められた椅子に腰を下ろし、周囲を見回しながらフィンケルは言った。「バグハート家を追われたというのに、相変わらず忙しそうだな。それは何の機械だ。」
 「足踏み式の洗濯機械だ。」とアンティル。「この籠に洗濯物を入れ、次に、この桶を水と灰汁(あく)で満たす。この踏み板を踏むと、この軸に動力が伝わって籠が回転し、灰汁の入った水の中で洗濯物が洗われる。下にあるこの栓から汚れた水を抜き、今度は水だけを入れて洗濯物をゆすぐ。最後に桶の水を抜いて籠だけを回転させれば、洗った洗濯物が水切りされるというわけだ。これは模型だが、完成すれば、おそらく洗濯女十人以上の働きを、これ一台でこなすことができるだろう。水を運ぶ時が少し大変だが、逆に、水さえあればわざわざ川端まで行く必要はなくなるし、冷たい思いもせずに済む。試作品を作ったら、まずは家で試して、うまく行くようなら近所の洗濯物も引き受けてみようと思う。」
 「普及すれば世の中が変わるな。洗濯は人の手で行うものではなく、代価を払ってこの機械を借りるか、全てを洗濯屋に頼むものになる。一方で、仕事にあぶれる洗濯女たちが現れることになるが、彼女たちに与える新たな仕事は考えているか?」
 「いくつか考えているが、今日はそんな話をしに来たわけではないだろう。何があった?」
 「良くない報せだ。」フィンケルは暗い顔つきになる。「リュイバンチスの戦いの話は知っているか?」
 「ウェスガー軍が城攻めに失敗して退却したという話は聞いている。」
 「その戦いで、デクター軍が硫黄の毒気を兵器として使用した。地下からの突入を試みた敵に対して、坑道の中に毒気を流し込み、そこにいた将兵や鉱夫を皆殺しにしたそうだ。」
 彼の言葉にアンティルは息を呑む。「ついに、その日が来てしまったか。」

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