ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(15)

第四章 冬終わる日に(その1)

 ミスカムシル暦2821年二月三十日。この日付は『ミスカムシル史大鑑』に収録されたアンティルの伝記に明記されている。
 ミスカムシルの暦法は、我々の世界で使われているグレゴリオ暦とは少し異なる。一年を365.2425日とする太陽暦であることは共通しているが、冬至の三日後を新年とし、各月の日数は偶数月が全て三十日、九月までの奇数月が三十一日となり、閏年(うるうどし)には、通常は三十日までしかない十一月の月末に三十一日が加えられる。我々の世界の暦にはない二月三十日という日付は、こうした暦法の違いによるものである。
 この日は、暦の上で冬である二月が終わり、翌日から春となる日ということで吉日とされていた。概して日の吉凶に無頓着だったティルドラスがあえて吉日であるこの日を選んだのか、単なる偶然だったのか、それについては謎のままである、と、ソン=シルバスは述べている。
 この日、ティルドラスは、チノーとサクトルバスを連れて、マクドゥマル郊外のアンティルの家を訪れた。
 訪問にあたっては、事前にイックを派遣し、引き出物とともに来意を伝えさせてある。伯爵である彼が一介の在野の士を訪ねるには破格の礼である。「聞けば、もとの官位も諫大夫に過ぎず、今は無位無官の村医者とのこと。わざわざ伯爵ご自身が足を運ばれずとも、宮廷に呼びつけて下問されれば良いのでは?」チノーはそう言って難色を示す。
 「メルクオが言ったではないか。彼に対するには師に対するごとく謙虚に話を聞くべき、と。賢者を招くに礼を尽くして悪いことはあるまい。」ティルドラスは答える。
 「左様ではございますが……。」チノーは納得が行かない表情である。彼自身はメルクオをさほど高く評価しておらず、アンティルに対しても、伝手(つて)を頼り手管を弄してティルドラスに取り入ろうとする、ありきたりの売名の徒ではないかと疑っていた。
 アンティルは玄関前でティルドラスを出迎え、自ら彼を客間に案内する。客間といっても書斎を兼ねた小さな部屋で、さらに部屋の四方に本がぎっしりと詰まった本棚が並び、四、五人も入れば身動きが取りにくくなる程度の広さである。
 「以前にお会いしておりますな。」席に着き、アルシアが運んできた茶を前にティルドラスは口を開く。
 「はい。伯爵の即位の式典で、バグハート家からの使者としてネビルクトンを訪れ、伯爵ご自身と言葉も交わしております。覚えていただいておりましたか。」アンティルは頷いた。
 「確かあの時は、伯爵家内部で実権を失うことがあれば、バグハート家と誼(よしみ)を通じ後ろ盾としては、というお話でした。時間が短く、詳しくお聞きできなかったのが残念でしたが。」
 「伯爵のみならず、バグハート家にとっても、それが最善の策であったはず。メイル子爵を説得できず、このように国の亡びを招いたことが悔やまれます。」
 「本日は、先生のご高名を聞き、教えを請えぬかとお邪魔しました。ご教示願えますでしょうか。」
 「恐れ入ります。いったいどなたが、非才の私のことを伯爵のお耳に入れたものやら。」
 「ご謙遜を。先生の才については将軍のメルクオ=リーから聞いております。名も知らぬ近在の農婦さえ、先生の名は知っておりました。それどころか、どこぞの村での祭祀に神の使いが降臨し、先生の名を告げたとの話までありますが……。」
 「あれでございますか。」アンティルは苦笑いする。「だいたいの見当は付いております。おそらく私の友人の一人が、私を伯爵に推挙するため、一芝居打ったものでしょう。」
 「あれは、まやかしだと?」
 「はい。ですから、私自身がその推挙に値する人物かどうかは、今日この場で伯爵ご自身の目で確かめていただきたいと存じます。友がそのきっかけを作ってくれたことには感謝しておりますが、祭祀の邪魔をしてしまった村の方々には申し訳ないことをしたかもしれませぬ。」
 申し訳ないどころか、後年、かの村の祭りはアンティルゆかりの祭祀として広く知られるようになり、神の使いがアンティルの名を告げる場面の再現なども行われるようになって、百年後のソン=シルバスの時代には毎年数千人が見物に訪れるほどの人気を集めていたという。
 「まやかしにしても、話を聞く限り、大変に手の込んだ、真に迫ったもののようでした。いったいどのような方法を使えばそのようなことが可能なのでしょう?」
 「ご覧になりますか?」
 「ええ、ぜひ。」
 「ティルドラスさま、ここで問うべきは、そういう事ではないと存じます。何よりもまず、衆を騒がせ伯爵を欺いたその責を問うべきでは――」チノーが横から口をはさむが、ティルドラスは意に介さない様子で、アンティルについて歩き出す。
 彼らを工房へと案内したアンティルは、部屋の片隅から何かの機械を持ち出してその中に組み込まれた灯火に灯りを点(とも)し、反対側の壁に白布を張り巡らせたあと、雨戸を閉め切って部屋を暗くし、何やら機械を操作する。と、壁に広げた白布一面に、壮麗な城の姿が浮かび上がった。
 「おお、これはキナイの城!」ティルドラスは目を見張る。彼が幼い時代に暮らし、今はアシュガル大公家に奪われているかつてのハッシバル家の国都・キナイの城である。「いったいどんなからくりなのでしょう?」
 「これは幻灯というものです。玻璃(はり。ガラス)の板に絵を描いて灯火の光を通し、透鏡(とうきょう。レンズ)の焦点を合わせて白布の上に像を結ぶ。要するに、子供の影絵遊びを発展させたものとお考え下さい。」説明しながらさらに機械を操作するアンティル。キナイの城は消え、今度はティンガル王家の都・ケーシの風景が映し出される。「通常はご覧の通り白布に像を映すのですが、私の友人――フィンケルという者です――は、祭りのかがり火に濃い白煙を発する薬品を仕込んで、その煙を白布代わりに、神の使いとやらの姿を映したのでしょう。」
 「実に興味深い。」興味津々といった様子のティルドラス。普段周囲に見せる飄々とした様子とは裏腹に、元来彼は知的好奇心が非常に強く、新しい知識や珍しい事物には飽くなき興味を示したと『ミスカムシル史大鑑』は伝えている。
 「これが、今は滅んでしまった太古の生物の一つ。岩に閉じ込められた骨から推測した往時の姿で、弟子たちへの授業用に描いた図です。」そう言いながらアンティルは、巨大な蜥蜴(とかげ)とも獣ともつかない外見の、不思議な動物の姿を白布に映し出す。「幻灯が広く普及すれば、このように教育や娯楽にも役立ちましょう。一方で、良からぬ者たちに悪用される危うさも胎(はら)んでおりますが。」
 「確かに、これは民を惑わし世を乱しかねぬ危険な技でございます。法をもって禁ずるべきではないかと。」傍らからチノーが声をあげる。
 「禁じてどうなりますか?」チノーを静かに見やりながらアンティルは言う。「もともと幻灯そのものは以前からあったもので、知る者は天下に数多くおります。見ての通り、まやかしに使う程度であれば、それほど複雑な扱いも大がかりな仕掛けも必要ありませぬ。法で禁じたところで、密かに使う者は現れましょうし、それに惑わされる者もおりましょう。禁じようとしても無益かと存じます。」
 「では、どうすれば良いと?」多少むきになるチノー。
 「むしろ、教育その他に大いに活用し、斯様(かよう)な技術があることを広く世に知らしむれば良い。幻灯の存在が広く世に知られれば、それによって惑わされる者もいなくなります。」とアンティル。「そもそも、世の君主は往々にして、民の目を塞いで見ることを許さず、耳を塞いで聞くことを妨げ、口を塞いでその言わんとすることを封じようとします。しかし、目・耳・口を塞がれ愚昧なままに置かれた民は、物事の理非を自ら判別することができず、流言や邪教にたやすく惑わされ、延(ひ)いては国を危うくすることとなります。さらに、そのような無知蒙昧に支配された国は、より良い技術や新しい考え方を取り入れることができぬまま結果として衰亡への道をたどらざるを得ませぬ。君たる者が民の目・耳・口を塞ごうとすることは亡国の兆しとお考え下さい。」
 「なるほど、心しましょう。」彼の言葉に頷くティルドラス。

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