ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(22)
第五章 宮廷人事(その2)
その晩は粗末な軍用の折り畳み寝台でぐっすりと寝たものの、一夜が明ければ、持ち込まれてくるのは例によって、煩雑なだけで中身のない国務の数々である。宮廷の儀礼を改定することへの承認。今後旧バグハート領を自分が領有・統治する旨を伯国内外に知らしめる宣言文の作成。伯爵家に献金を行ったどこかの富農に宛てた自筆の礼状……。この礼状は、おそらく応接間あたりに飾られて来客に見せびらかされるのだろう。『ミスカムシル史大鑑』には、そのようなティルドラス自筆の礼状(ソン=シルバスによれば、意外に悪筆であったという)が、百年後の時代にも各地の旧家にいくつか残されていたことが記されている。
そうした案件の間に滑り込ませるような形で彼のもとに届く話があった。亡びたバグハート家でメイル子爵が所有していた私有財産の処分についてである。
――某所にありますメイル子爵の私邸は、摂政が領内を視察される時のために、摂政の所有としてはいかがでしょうか。――
――某所にあります荘園を化粧料として摂政に賜るべきかと存じます。――
――某所にあります放牧場はガルキン将軍の宰領にお任せするのがよろしいかと。――
こうした案件はばらばらに分けて目立たぬ形でティルドラスのもとに届けられていたが、つなぎ合わせてみると、メイル子爵の私有財産のうち金銀と穀物はほとんどが伯国の国庫に納められることになり、美術品や宝石、工芸品などの宝物もティルドラス個人ではなく伯爵家全体の共有財産とされる。一方、邸宅や荘園、牧場、山林などの地所はおよそ三分の二がサフィアや取り巻きたちに分配され、ティルドラスの義母であるルロアや実母のメルリアンに化粧料として進呈されるものもあって、ティルドラス個人の所領となるのは全体の十分の一程度だった。
「このようなことがあって良いものでしょうか。我らが苦労して切り取ったバグハート領の土地を何の戦功もない摂政やガルキン将軍が我が物にするなど、許されることではありませぬ。」ティルドラスに向かって息巻くチノー。
「うーむ。」彼の言葉に考え込むティルドラス。別に贅沢暮らしがしたいわけでもないが、白甲兵やバグハート家の忍群を新たに抱え、借金も返していかねばならない中で、サフィアや取り巻きたちにほとんどを持って行かれてしまうのは、やはり釈然としない。
「私が摂政のもとに赴き、少なくとも地所は全て伯爵にお渡しするよう、理を尽くして説いて参ります。」チノーは続ける。
ティルドラスは良いとも悪いとも言わず、ややあって、傍らに控えるアンティルを振り返る。「アンティル、どう思う?」
『なぜアンティルなのだ。』彼の言葉に内心つぶやくチノー。
「交渉を試みること自体は無駄ではないと存じます。しかし残念ながら、摂政一派が一度手に入れたものを素直に手放すことは期待できますまい。」アンティルは言う。「交渉を行うとすれば、伯爵の所有とされた庭園や邸宅を手放し、代わって実際の収入源となる荘園や山林をなるべく多く得ることを目指すべきでございましょう。その際気をつけねばならぬ事は――」
「それは私が考えること。差し出口は無用に願いたい!」彼の言葉にチノーは気色(けしき)ばむ。
「失礼しました。無論、交渉はチノーさまにお任せします。」アンティルの口調はあくまでも静かだった。「ただ、併せて他の方策も考えておくべきかと存じます。」
「というと?」とティルドラス。
「当面の問題は、緑林兵や白甲兵、伯爵ご自身の指揮下にある忍びたちを養えるだけの収入をいかに得るかという事でございます。逆に、収入を得られるのであれば、必ずしもメイル子爵の私有地にこだわる必要はありませぬ。マクドゥマルから少し離れた海岸に主のない荒れ地が広がっております。まずはそこを伯爵の御料地として収められませ。」
「ほう? そこに何か埋まってでもいるのか。」興味深げに身を乗り出すティルドラス。
「以前申し上げた、無から有を生じて富を得る方法の一つがその地にございます。銀千両を私にお預けいただければ、多少時間はかかりますが、その御料地から、差し当たって必要な程度の収入は得られるようになりましょう。」とアンティル。
「チノー、アンティルのために銀千両を用意することはできるか。」ティルドラスはチノーの方を振り返る。
「と言われましても……。」困惑した表情でチノーは言う。何せ借金すら返せず、ティルドラスの身の回りの品が次々と差し押さえられているような状況である。「とても千両は無理でございます。二百両ならば……。」
「二百両では役に立ちませぬ。どうあっても千両が必要です。」
「せめて五百両で何とか……。」
「千両です。」
「な――!」きっぱりと言い切ったアンティルの口調に、チノーは少々色を為す。
「良い、チノー。」彼をなだめるような口調でティルドラスが言う。「ならば、普段使わない私の身の回りのもので、売るなり担保にするなりして千両に替えられるものはないか。」
「伯爵がお使いにならぬあの馬車をサフィア様にお譲りになれば、おそらく千七、八百両にはなりましょうが、しかし――。」
「その馬車とは?」傍らから訪ねるアンティル。
「昔、父上が名工を集めて作らせた馬車だ。私自身は手軽に使えてどこにでも入っていける小さな馬車が好きなので使わないのだが。」とティルドラス。「八頭立ての大きなもので、外は漆塗りに金蒔絵の飾りがあり、中に寝室と食堂と厠所がそろっている。以前から叔母上が執心らしく、譲ってほしいようなことを何度か言われた。別に惜しんだわけでもないが、譲らねばならぬ理由も特にないのでそのままにしていたのだ。」
「素晴らしい。」アンティルは声をあげる。「虚飾を捨てて実利を取る。是非ともその馬車を摂政に譲られて、将来のため有為の金を得られますよう。」
「しかし――」何か言いかけるチノー。
「良い、チノー。」彼を押しとどめるティルドラス。「海辺の土地と馬車についてはアンティルに任せる。なるべく良い条件を引き出せるよう努めてほしい。」
「承知いたしました。二千両は出させてご覧に入れます。」彼の言葉に頭を下げるアンティル。「ただ、交渉の中で、伯爵のお顔に少々泥を塗るようなことを申させていただきますが、何とぞご容赦ください。」
「何と――!」目を見張るチノー。
「良い。」重ねてティルドラスになだめられ、チノーは口をつぐむものの、その表情は明らかに不満げだった。
持ち主のない海岸沿いの土地をティルドラスの所領とすることはすんなり認められる。名目は、その周辺には水鳥や兎が多く(これは事実らしい)、ティルドラスの猟場とするということだった。さらにアンティルが猟場番という肩書きを与えられてその土地の管理に当たることになる。「馬車についても、予想以上にうまく話が進み、三千両になりました。」役目を終え、ティルドラスの元に戻って報告するアンティル。
「何と言って交渉した?」
「応対に出ました摂政の側近に、伯爵が借金の返済に苦しんでおり、身の回りのものが次々と差し押さえられて、このままでは伯爵としての体面を保てぬ怖れもあります、と申して取り次ぎを頼みましたところ、摂政はわざわざ私を呼んで伯爵のご様子をお尋ねになりました。伯爵が寝台を差し押さえられ、軍用の折り畳み寝台で寝ておられることを話しますと、摂政は大いに笑い、ご自分から三千両で馬車を引き取ると申し出られました。」
「そうか。」ティルドラスは別に怒りもせず、むしろ面白がるような様子だったが、傍らのチノーはにこりともせず、黙って二人の会話を聞いているだけだった。
「三千両のうち千五百両をお預かりします。残りの千五百両は伯爵のお手元に残しますが、借金の返済は摂政に怪しまれぬ程度で十分かと。身の回りの物が少々差し押さえられたとしても気にかけられる必要はございますまい。むしろ緑林兵・白甲兵や忍びたちへの報酬を滞らせぬようお気をつけ下さい。」
「うむ。」頷くティルドラス。一方のチノーは相変わらず固い表情のままアンティルを睨みつけていた。
「何だというのだ。」帰宅後、自宅で一人夕食をしたためながら、チノーは腹立たしげにつぶやく。「ああやって伯爵に恥をかかせるようなことを申して何が面白い。」
彼自身の交渉はうまく行かなかった。アンティルが言った通り、サフィアの取り巻きたちは一度手に入れたものを手放すつもりは毛頭なく、言を左右にして彼の申し入れをはぐらかす。結局、これもアンティルが言ったように、庭園や邸宅を手放して荘園や山林と交換する形でティルドラスの収入を多少増やすことができたに止まる。
『とはいえ私はなんとか任を果たして伯爵の為(ため)を図ることができた。それに対して、あの男はいったい何をしようとしているのだ。海辺の荒れ地が何の役に立つ。まさか、預かった千五百両を持って逃げるつもりではあるまいな。』多少の酒も入り、幾分酔った頭でチノーは鬱々と考える。『伯爵も伯爵だ。なぜ、あのような官位も低く心根も知れぬ男を、あそこまで信任されるのだ。』
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