ミスカムシル全図

ティルドラス公は本日も多忙③ 冬終わる日に人来たる(18)

第四章 冬終わる日に(その4)

 いきなり捕らえられ、そのまま宮廷に連行された商人たちは震え上がる。摂政・サフィアのお声がかりで旧バグハート領に悪銭を持ち込むことはできるようになったものの、もともとこの地に悪銭が持ち込まれることをティルドラスが快く思っていないのは周知の事実である。
 ティルドラスは優柔不断で少々意気地なしというのがハッシバル家本国での認識であるが、この地の噂では、バグハート家時代にハッシバル家に敵対した者たち数百人(という話になっていた)を捕らえて片端から打ち首にしたという。自分たちも同じ目に遭うのではないか。伯爵を甘く見過ぎていた。どうしよう……。彼らは恐慌を来し、泣き出す者さえ現れる。
 ――欲を出してあと一儲けしようとしたばっかりに、こんなことになるなんて。――
 ――女房は止めろって言ってたんだ。ああ、素直に言うこと聞いときゃ良かった。――
 ――死にたくねえよぉ!――
 ――命ばかりはお助けを!――
 その彼らの前にアンティルが姿を現し、穏やかな口調で声をかける。「私は郎のペジュン=アンティルと申す者。伯爵からお前たちへの仰せを伝えに来ました。」
 ここで話は少しややこしくなる。周囲の注意がアンティルに向いたその瞬間に、一人の商人が荷物も何も放り出し、開いている城門めがけて一目散に走り出す。止めようとしたバーズモンが突き飛ばされて尻餅をつくが、別の兵士が手にした六尺棒で足払いを食らわせ、商人は見事に宙を飛んで顎から地面に激突した。さらにもう一人が同じく城門に向かって走り出そうとするものの、こちらは横にいたハカンダルが後ろ襟をつかんで引き戻す。
 「恐れる必要はありません。」驚き騒ぐ彼らに向かってアンティルは続ける。「伯爵の仰せです。お前たちの持つ悪銭を、通常の交換より二割高い、悪銭五枚につき良銭三枚の割合で引き取っていただける。有り難くお受けしなさい。」
 「???」顔を見合わせる商人たち。確かに、二対一の交換率が公式に発表された今、期待していたようなぼろ儲けはできそうにない。ならばここで五対三の交換をして、少しでも利益を出しておいた方が良いかも知れない。しかしなぜ、伯爵は突然にこんなことを言い出したのか――。
 それでも、命が助かる上に多少の利益まで得られるならばと、商人たちはおとなしく交換に応じ、首をかしげながら去っていった。「これで、当面必要なだけの悪銭は確保できました。交換を開始してよろしいかと存じます。」集めた悪銭を前に、ティルドラスに進言するアンティル。
 こうして、各地の役所で銅銭の交換が始まった。当初は半信半疑の庶民たちだったが、試しに持ち込んだ少額の良銭が実際に二倍の悪銭と交換されたことで幾分安堵する。集められた良銭はネビルクトンへと送られ、それと引き換えに、交換に使用する悪銭がマクドゥマルの宮廷へと届けられることとなる。引換証の方も、春の納税を引換証で行えば税額が一割軽減されると聞いた者たちが交換に応じ始め、それが商取引にも使用されて、少しずつ一般に普及していった。
 余談であるが、この引換証は、やがて徐々に悪銭と交換されて姿を消し、百年後のソン=シルバスの時代にはわずかな数が残るのみだった。その希少性が人気を呼び、収集家の間では一枚が銀数百両で売買されていたという。家が没落し恋人との結婚も破談になりかけていたある旧家の息子が、倉の片隅で退蔵されていたこの引換証の束を偶然見つけ、それを売って得た金を元手に家産を立て直し恋人ともめでたく結ばれたという出来事が実際にあったと『ミスカムシル史大鑑』食貨志は伝えている。
 「まずは、大きな混乱も民を苦しめることもないまま事態を収拾することができた。お前の立てた策は良かったと思う。」事が一段落し、経過の報告をするアンティルにティルドラスは言う。「しかし分からぬことがある。いったい誰が得をして、誰が損をしたのだろう?」
 「得をした者などいない、と申し上げるべきでしょうか。」とアンティル。「五対三の交換をした商人たちは多少の利は得たかも知れませぬが、それも、本国からの旅費や滞在費を考えればさほどのものではないはず。銅銭を使う民も、混乱や大損を避けられたというだけで、決して得をしたわけではございませぬ。」
 「一番損をした者は?」
 「伯爵ご自身でございます。」
 「私が?」
 「正確には、伯爵家が、でございますが。」目を見張るティルドラスに向かってアンティルは続ける。「もともと伯爵家が昔の良銭を集め、混ぜ物をしてもとの一枚を二枚に鋳直し、再び発行する手間をかけてまで悪銭を発行したのは、手持ちの銭を水増しし、利ざやを稼いで民を貪るためでございました。伯爵ご自身は民を貪ることを良しとされず、自らその道を避けられましたが、それはまた、悪銭を作る際にかかった費(つい)えの分だけ、伯爵家が損をしたということも意味します。」
 「そうか。そこまでは気付かなかった。」つぶやくような口調でティルドラスは言う。
 「後悔されておりますか?」
 「いや、別に後悔はしていない。もう一度同じことがあったとしても、やはり同じ道を選ぶだろう。」アンティルの問いに、彼は静かにかぶりを振った。
 アンティルは満足げに頷き、教え諭すような口調で続ける。「富を得る方法は大きく二つしかございませぬ。英知と労苦を尽くして無から新たな価値を生み出すか、暴力や奸計を用いて他人の持つ富を奪うかでございます。無から新たな価値を生み出すのは難(かた)く、愚かな者・弱い者から奪い取るのは易(やす)い。しかし国を治める者が弱きを貪ることで利を得るようになっては、民の暮らしは成り立ちませぬ。追い詰められた民はいずれ必ず牙をむき、国の存続を脅かすことにもなりましょう。伯爵の為されたことは、国家長久の計としては正しかったと存じます。――ただ、摂政と国権を争い、さらに他国の動きにも備えねばならぬ中、民を貪る道を取らずに、しかも国権を取り戻し国の力を蓄えるためには並々ならぬ知恵と努力が求められます。ご自分が進もうとされている道が茨の道であることは、どうかご理解下さい。」
 「その茨の道を、無から新たな価値を生み出すことで私のために切り開いてくれる者がいるとすれば、それはお前自身ではなかろうか、と思っているのだが、どうだろう?」冗談めかしたような口調だが、ティルドラスの言葉の奥にはどこか、探るような鋭さがあった。
 「もったいないお言葉。ご期待に違(たが)わぬよう、微力ながら全力を尽くさせていただきます。」その鋭さを軽く受け流すように、しかしあくまでも穏やかに静かな様子で、アンティルは恭(うやうや)しく頭を下げる。
 この間にアンティルが取り組んでいたのは通貨問題だけではない。話は多少前後するが、平行して、ティルドラス直属の情報収集部隊の立ち上げも彼は行っていた。
 「摂政から国権を取り戻すにせよ、民の暮らしの実情を知るにせよ、伯爵の目となり耳となって報せをもたらす者たちが不可欠でございます。」ティルドラスに仕えてすぐ、彼はそう進言した。「しかしながら、現在、伯爵家のお抱え忍群は摂政の手に握られております。伯爵ご自身の手兵である緑林兵・白甲兵と同様に、直接命令を下せる忍びの者も召し抱えられるべきかと。」
 「一応、身近にあって私のために働いてくれている忍びの者はいるのだが。」とティルドラス。
 「『蝉』『蜘蛛』のお二人でございますな。確かに、伯爵を陰ながら護衛し、潜入してきた敵の忍びを捕らえ、敵地に乗り込んで内情を探るには、お二人の力は欠かせませぬ。ただ、それとは別に、お二人を用いるまでもない小さな、しかし数多い任務をこなす者も必要でございます。」
 「その当てがあると?」
 「はい。バグハート家が亡び、抱えられていた忍群が行き場を失っております。他国に引き抜かれたり、飢えて群盗となったりする前に急ぎお抱え下さい。幸い、バグハート家に仕えていた頃、彼らへの連絡をつけられる者と面識がございました。その者を通じて彼らを招くことといたしましょう。」
 こうして、かつてバグハート家に仕えていた忍びの者たちが密かにマクドゥマルの宮廷に呼ばれ、ティルドラスに目通りする。いきなり宮廷の奥向きに通され、驚いた表情で周囲を見回す忍びたち。その中で、彼らの領袖が恐縮したように言った。「我らをかような場所に呼んでいただけるとは……。」アゾル=ザッカという名で、髪も髭も真っ白な七十あまりの老人である。
 もともとメイル子爵は忍びの者が行うような情報収集活動や後方攪乱に重きを置かず、子爵家の中での忍びの地位も低かった。待遇も劣悪で、それに不満を抱いて他国に奔(はし)った者も多い。「恥ずかしながら、我が息子のゼブルも、手練れの仲間数人を引き連れ、カイガー家へと去っております。さらにバグハート家が亡びたことで、多くの者たちが仕官を求めてこの地を去りました。残った者たちだけで、果たして伯爵のお役に立てますやら。」
 「いや、ぜひともお前たちの力を借りたいのだ。」アゾルに向かってティルドラスは言う。「命令は私から直接、あるいはアンティルを通じて行うこととする。大いに役立ってほしい。」こうしてティルドラスはバグハート家の忍びたちを召し抱えることとなった。
 そのほかにもアンティルからの進言に基づいた法令や布告が矢継ぎ早に出され、さらに国政の相談の合間に彼が説明する科学や社会についての知識も、ティルドラスは驚くほどの早さで吸収し続ける。『パスケル先生、どうやらあなたの教えは、一国の主へと受け継がれることとなりそうです。』彼の長足の進歩に内心目を見張りながら、アンティルは思う。
 だが一方で、アンティルに対するティルドラスのこうした信任ぶりは、周囲の密かな反発も招いていた。

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