長男の留年のことと温泉旅行と
何度か書いているが、長男は高校四年目で通信高校に編入し卒業、大学は一年留年している。
高校生のとき、朝起き上がれなくなったのだ。
起立性調節障害のお子さんを持ち、将来に不安を感じている方が随分いることを最近知った。
治るのだいつかは体調も戻る、ただそれが何時なのかわからないだけだ。きっと快方へと向かうのだ。
色々と重なるときは重なるものさ
長男が大学五年生となる年の今ごろ、わが家はてんやわんやだった。頭痛を訴えていた父の頭蓋骨内に出血が発見され、緊急入院となり終末医療の承諾書を渡されたりと、長男の留年も大ごとだが父の生命の危機も大ごとだった。
私名義で父の「葬式代」を預金してある通帳があった。ついにその通帳の出番かと、母と在処と印鑑を確認したりだった。
父は三週間後に、無事なのか奇跡的になのか回復し退院できた。視力と聴力に後遺症はあったが、自宅で介護ヘルパーの利用回数を増やしながら生活できるようになった。
そこで私は両親に頭を下げてお願いしたのだ、その葬式代を長男の学費と生活費に貸してほしいことと、借金した分を返し終わるまで死なないで欲しいと。
将来延々とわが家で語り継がれるであろう伝説のdelete事件について
長男の体調は大学生になりだいぶ快方に向かってはいたが、睡眠障害と晩秋から冬季間の気分障害で、一年生のときの朝一の単位を二講出席不足で落としていた。予定では卒論の提出が終わった段階でゼミの先生に付き添ってもらい、それぞれの教授にレポート等で何とか卒業をお願い行脚をするはずだった。
あれはクリスマス前だった長男からの電話があったのは。
卒論のどうしても書ききれない部分と、パソコンの調子の悪さに「しっかりしろ、消えてしまえ!」とdeleteキーを押した途端、データがそっくりと消えてしまった。パソコンのレスキューに出したが、データは復活しなかったと。
「サンタさんにお願いしてみた?」
「うん、サンタさんでもダメみたいだ」
そんなときに交わす会話にしては抜けている親子だった。
四年間使い続けたパソコンの調子が悪いので卒業祝いに買ってくれと言われていたのだった。まさか外部にデータを移していないとは思わなかった。
それで留年が確定したのだが、最後の一年間で中学高校支援学校の地歴公民社会科全教科を教えることが出来るようになったのだから、結果オーライではあったのだろう。
引越しそして
三月の下旬だった、まだ雪が残っていた。
まだ大学生の次男と三男それに長男の大学三人、それに自分たち夫婦で四軒分の家賃生活費を賄うのは無理があるので、長男の学生アパートと三男の学生会館の契約更新の控えていたので同居をさせることとなり、引越しの手伝いに行った。
三男の大学の裏門のすぐ近くに、大家さん親子三世帯住宅と事務所兼テナントのビルの子供世帯を賃貸に出すにあたり「三男の大学在学中の学生兄弟」との条件に合い、破格の金額で入居できることとなっっていた。長男は私の叔母から既に卒業祝いとしてコンパクトカーを贈られていたので、その車でで引越しを済ませ、これから一年間の通学もすることとなった。
学生会館に寄り退去手続きを済ませ、三男の荷物をマイカーに積み込んで新居へと運んだ。長男はその日アルバイトがあり、その後サークルの会議があるので遅くなると連絡が入った。
新居は大きな幹線沿いに建っていた。この道はある温泉地につながっていることは、かつてその市に住んだことのあるので知っていた。
その夜日にちが変わって家族全員が寝静まった、もう明け方と言ってしまっても良い頃に長男が帰って来て就寝した。
翌朝ベットから起き上がれずに眠る顔を見て、まだ治りきれていないのだと覚ることができた。もう少し時間がかかるのかと。
当座の食品や生活雑貨を買い込み、生活費を三男に預けて、段ボールの空き箱とゴミ袋を自分たちの車に積み込み、昼過ぎに夫と二人帰ることとした。
そうだ温泉に行こう
眠る長男の姿に複雑な思いは夫にもあったのだろう。
自動車を帰路へ向けようとする夫に、「お父さん、道路の向こう側にわたって、ずっと走って温泉に行こう」と私が告げると、いつもならば突飛でもないと反対する夫が深く頷き路線の変更をしてくれた。
後部座席とトランクにゴミと埃まみれの段ボールを積み込んで、私たち夫婦は言葉少なく車を走らせた。初めての二人きりの温泉旅行をすることとなったのだ。
そうやって私たち夫婦の温泉旅行は始まった
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