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「好き」と「推し」

どうも!こんにちは。
少し前に面白い記事を読みました。

題は『現役女子大生が語る、
高校生も働ける”コンカフェ”のリアル』というもので、
近年の若者文化の構造と
若い女性がコンカフェや風俗業界に導かれていく現実が、
佐々木チワワさんという方への
インタビュー形式で明らかにされています。

この記事の中でも特に私が面白いと思ったのは「推し」文化を言語化した部分。

簡単に書き出すと
・「好き」と「推し」は違う
・「好き」は相手やものへの感情
・「推し」は「〇〇が好きな自分」というアイデンティティ
・「ガチ恋」よりは自分を遠くに置いている(推してるだけだからいいよね)
こういった特徴があるのだといいます。

私自身「推し」と呼べるものは特にないので、
近年「ファン」とはまた違ったニュアンスの「推し」という表現が
広く使われ始めたことは不思議だなと思っていました。

私は来季からカブスへ移籍するDeNA・今永選手の「ファン」ですが、
世にいう「推し」ではなさそうです。

これまで何となくのイメージとして、
「推し」を掲げる人に対して
付け入る隙がないな」「独占的なニュアンスを感じるな
という印象を受けていました。

「好き」ではなく「推し」を持つ人はよく発信をする気がします。

「推し」は自分とそのコンテンツとの距離感
1つのアイデンティティなのかもしれません。

時には身をほろぼすほどのお金を使い、
自分なりの距離感・立ち位置を堅持するために情報発信。
そこまでの熱量がない受け手としてはたじろいでしまうことがあります。

そういう意味ではこれまで私が感じていた独占的なイメージは、
対象物への独占ではなく、自身のアイデンティティを守ろうとする
意思からくるものだったのかなと思えてきました。

つまりコンテンツを追いかけ、お金をかけ、周りにアピールする行動は
「〇〇が好き」という自分のアイデンティティを守るためでも
あったのだろうということです。

コロナ禍以降、心に空白が空きやすい環境でしたので
そこに入り込んだのが近年の推し文化であったのだろうと思います。

「グッズは欠かさず買う」「アニメのこのキャラクター専門」
「アイドルのSNS発信担当」など各々の推し活プレイヤーは
自分だけの立ち位置を見つけコンテンツを守っていく。

何とも切実さを感じてしまいます。

また、記事の中で「推し」では基本的にきれいな部分しか見ないと
書かれています。

「好き」や「恋愛」とは違って不都合な事実が出てきたときには
「推し降りるわ」といって離れていく現象があるんだとか。

アイドルの結婚などが分かりやすい例ですね。

自分のアイデンティティの一部である「推し活」においては
自分のブランディングに則さない事実が出てきたときには
容赦なく離れていくという傾向が強いのだろうと思いました。

私個人の意見としては「推し活」はどんどんやっていいと思うのだけれど、無理をして疲弊してしまわないかが心配です。

ただでさえSNS社会・変化の大きい社会はストレスが大きいです。

「コンテンツを好き」という感情自体に満足できるならいいですが、
他者や他者が作ったコンテンツに過度な期待をし、
そこに自分のアイデンティティをかぶせて役割を抱えることは
何だか危なっかしく思えてしまうのです。

現に私が「推し」を持っていないのもその種の怖さがあるからだと感じます。

そこで私としては「自分推し」を提唱したい。
自分自身にもっと興味を持ち、自分がやりたいことや興味を持つことを
全肯定してやってみる、
それを自分のアイデンティティとして持ってみるというものです。

周りの友達を見ると、推しには熱心だけれど自分のことになると
「どうせ無理・・・」「これまで通りでいいよ・・・」と
弱気になるので何ともやり切れません。

現代人の「推し活」への熱量を見ると、その矢印を自分に向けたとたん
とんでもないバイタリティになるんじゃないかと思えてきます。

なので私は「推し活」の次のトレンドが「自分推し」になったらいいなと
ひそかに願っております。

参照した記事は下に貼っておきますのでこちらもぜひお読みください。↓

ではまた。明日からの1週間頑張りましょう!

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