コミュニティマネージメントのど真ん中にあるもの
与論島でワーケーションしてる。
昨日の午前中は、コミュニティについて考えていた。
clubhouseで「春休み大隈塾」をやってて、
ゲストに熊本のエコビレッジ「サイハテ」でコミュニティ・マネージャーをしている坂井勇貴(ユーキ)さんに来てもらって。
サイハテには、ルールがない。
代わりに、「お好きなように」というスローガンがある。
やりたかったら、どうぞやってください、ということ。
サイハテには大人22人、子ども8人が暮らしている。
ぞれぞれが家を建てたり修理したりしながら住み、
クリエイターだったりデザイナーだったり、
ヨガのインストラクターだったり、スイーツを作って販売したり、
漁師の手伝いアルバイトをしながら、稼ぎを得ている。
ルールがないとはどういうことか?
ユーキさんがいうには、
たいがいのコミュニティにはルールがある。
ルールはそのコミュニティの価値観によってつくられる。
そのルールによって、秩序が保たれる。
だけど、コミュニティの価値観には大部分共感するけど一部だけはちょっとと思っている人、
秩序を窮屈だと感じてしまう人、は必ずいる。
そんな人は、そのコミュニティに入ってはいけないのか、
そんな人は、そのコミュニティから排除すべきなのか。
ということになる。
また、
ルールがあれば、それが判断基準になってとても便利ではあるけれども、
ルールは罪と罰もつくりだす。
つまり、ルールを破った人は罪を犯した人として罰が与えられる。
それだけではなく、対話もうまれない。
ルール違反だ、でおわってしまうから。
ルールがなければ、罪も罰もなくなる。
判断する統一基準もないから、
もし迷惑だ、イヤだ、と感じることを誰かがすれば、
その本人との対話で解決するしかない。
なんでそういうことをしたのか、どうしてそう考えるのか、
お互いに対話を通して、納得点を探っていく。
小さいコミュニティならではのことだけど、
対話をしながら暮らしていくことの苦労もあるだろうし、
楽しさもそれ以上にあるだろう。
家族というコミュニティでもルールがない。
こうする「べき」だということがいえなくなる。
たとえば、義務教育である。
憲法には、教育を受けさせなければならないと書いてある。
だから「学校にはいかなければならない」のに、
子どもは「いきなくない」と主張する。
そうすると、なぜいきたくないのか、と問う。
子どもが答える。
すると、子どもとの対話がうまれる。
(オトナがコドモに心理的安全性を確保してあげることが大前提)
学校の先生とも対話する。
最初は困惑するが、先生もやがてそのペースになれてくる。
お互いに納得する方法で、その子の教育をやっていく。
すると、教育は学校任せ、ではなくなる。
家庭でも、子育てだけじゃなく、学びの要素が入ってくる。
ルールは便利だけれど、思考停止をしてしまう。
ルールは、対話のチャンスを奪ってしまう。
コミュニティに必要なのは、ルールではなく対話である。