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水脈を透視し、月の裏側を念写! 日本の未来を予言していた霊媒・三田光一の素顔/不二龍彦

「月の裏側を念写した」人物として、大正から昭和にかけてその名を馳せた霊能力者・三田光一。だが、三田の能力者としての真髄は「念写」だけにとどまらなかった――。本稿では、三田の軌跡を振り返り、不世出の霊媒の真実に迫る。

文=不二龍彦

警察の依頼で盗品を「遠隔透視」

 三田光一の霊能といえば、だれもが真っ先に挙げるのは驚異的な念写能力だが、これは福来友吉とのコンビによる念写実験の業績のみが広く知られてきたためで、彼の能力は念写にかぎったものではない。念写以上に凄まじいのは、時間・空間を超えて働かすことのできた透視能力で、この力があるからこそ、三田の驚異的な念写も成立しているのだ。

三田光一

三田光一(1885年 - 1943年)。

 三田の人となりや人生は後述するとして、まずはその透視の実例を、新聞記事をもとに見ていくことにしよう。

 三田の名を世間に知らしめた最初の透視は、刑事事件に関わるものだ。
 大正3年、阪神と四国を結ぶ汽船に積んだ郵便物が盗まれるという事件が相次ぎ、前科10犯の森鉄丸が逮捕された。郵便行李(こうり)中の現金や為替証券などは抜き取り、残りは4個の行李に押し込んで捨てたと森は自白したが、隠匿場所や遺棄場所については頑として口を割らず、係官を手こずらせた。
 その後、ようやく行李は神戸市内の蟹川尻と旧居留地海岸の京橋付近の海中に投棄したと自白したが、これだけではまだ漠然としすぎており、証拠の物証を揚げることはできない。そこで相生橋署の小林署長が、千里眼で知られる三田に、郵便行李の透視を依頼した。以後は新聞から引こう。

「(三田が)『元居留地京橋の海岸より14歩沖合の海底に、1個沈没しあり。それより約1間半を隔てたる右手にペンキの空罐あり。その横手に1個。また東川崎町蟹川尻桟橋の板の3枚目と4枚目の下に1個ずつ沈没せり』と断言したるより、14日、同署長は藤本刑事外数名を随え水上署の汽艇に乗り、前記の場所に錨を入れたるに、寸分違わず4個の行嚢(こうのう)を引き上げたるのみか、(透視通りの)空罐まで引掛りたる有様に、何れも今更ながら驚嘆」(「神戸新聞」大正3年6月16日)

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郵便物の透視による発見を報じる「神戸新聞」と「日本貿易新聞」(大正3年6月16日)。

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大阪の衛生博覧会で観客が箱中に封じた物体の透視を行う三田(「大阪新報」大正4年7月27日)。しばしの凝視後、「ハンカチに包んだ入場券ではないか」といい当て、満場の大喝采を浴びた。このときの公演では、大阪病院から送られた2名の患者の心臓透視も行い、みごとに患部を指摘したという。

舞台上で脱魂状態から「透視」する

 この贓物透視は、センセーショナルな出来事として世人の耳目を集め、「神戸新聞」のほか、「大阪朝日新聞」、「国民新聞」、「日本貿易新聞」など多数の新聞が報じている。
 こうした透視は、千里眼の興行や実験会においても毎回行われたが、2種類の別があった。ひとつは御船千鶴子ら「千里眼」能力者がやったような、容器等に封じ入れられた物をいい当てる物体透視。もうひとつは、遠隔地の情景などを脱魂して見てきた上で、舞台上で披露する遠隔透視だ。
 前者の透視には手品やイカサマといった批判が必ずつきまとうが、後者はそうはいかない。そのためか、三田は積極的に遠隔透視を行ったが、透視ぶりは凄まじかった。その場で出題された特定人物の商売、店頭陳列品、電話番号、家人や商家・会社などの現在の様子、現時点での客数、特定の場所の銅像や記念碑の具体的な描写などを、舞台に立ったままで透視した。

 たとえば、大正4年11月の沖縄の実験会では、①那覇警察署長・和田竹四郎の自宅床の間の掛軸は何か。②宮城医院の3号室では今何をしているか。③久米町の聖廟内部の状況はどうなっているか、などの問題が出された。
 三田は、「一括して巡ってきます。これには空間も時間もありません」と観衆に語ってから、統一・脱魂状態に入った。「一括して」というのは、一度の脱魂でお題の場所を全部回るという意味だ。一括ではなく、お題ごとに統一・脱魂を繰り返すこともある。
 脱魂している時間は多くの場合2分内外。ときには1分以内で終えることもあり、非常に短い。その短時間でお題の問題にかかわる場所に行き、リアルとしかいいようのない正確さで情報を持ち帰るのだ。
 このときの三田の透視の様子を、「沖縄朝日新聞」はこう記している。

「『宮城医院の(3号室の)入院患者は慥(たし)かに外科手術を施したる者にて、2ヶ所切開したり』と明言し、廊下を歩く看護婦の姿まで歴々と透視し、(院長の)宮城(普喜)氏をアッと云わせ、『和田氏の掛軸は鮮やかならねど2つの物体を並べて画いた絵軸なり』と迄は中りしが、成功の域に達せざりしも、久米の聖廟は『泉崎の橋際に至り、車夫に聞いて分かりしが、門も閉じ人も在ず。門の色は赤い屋根瓦の色に似たり。更に透視中の透視を行うて中に入りしに、正面の檀上紙障あり、左右に行燈の如きものありて、至聖先師孔子神位の8文字を縦記せる標札あり』とて自ら筆を執りて大書したるには破るるが如き喝采なりき」(「沖縄朝日新聞」大正4年11月23日)

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千里眼としての評価が定まって以降の実験会演目。病源透視、物体透視、遠距離透視が並べられており、遠距離については「例えば何字何町何番地のだれは何の営業で電話は何番とか、家の構造・家族、現在の状態如何とか、或いはハワイにいる何某は今何をしているか等、何事にても即座に透視」と謳っている(「沖縄朝日新聞」大正4年11月22日)。

 三田の透視が正しいかどうかを、警察関係者や新聞記者などが電話で確認しているケースもある。その一例として、岐阜新聞社主催の心霊現象実験会を挙げよう。この実験会を見るために岐阜市公会堂に押し寄せた入場者は44000人余。定員は3500人だったが、なお入口に数百名が殺到したため、岐阜警察の早野署長の斡旋で、あと500名を入場させたとある。

 この日の遠隔透視も冴えに冴えた。新聞を引く。
「『金津海月楼二階の応接間の植木は何か』との質問に、(三田は)『カフェー式になっているが、あれが青楼(遊女屋)とはおかしい。店に客が二人いる。応接間は上がった直ぐのところにあり、盆栽は松であり、その傍らに裸体の額がある。今、弥生と名づくる丸ぽちゃの背の低い娼妓さんが上ったところだ』と答えた。記者がすぐ電話で問い合わせると、果たしてその如くで、少しの間違いもない」(「岐阜新聞」昭和8年11月14日)

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4000人の大観衆を集めた昭和8年11月の実験会報道(「岐阜新聞」11月14日)。月の裏面の念写も報じられている。左端の人物は最近死去した画家の野原桜洲。これも三田の念写で出現している。

 脱魂して現場を見て帰った三田は、この調子で次々とリアルな情景を語っていく。この日、観客から出された15題のうち、14題を見事に透視したと新聞は報じ、「只不思議、霊妙というより他に評しようがない」と結んでいる。かの有名な月裏の念写は、この日の実験会で撮られたのである。

人体内部の腫れ物透視が解剖結果と一致

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