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西洋哲学と東洋哲学とAIとの関係

技術哲学の七沢さんと藤井さんが対談をしていたYoutubeを聞いていて、非常に面白い議論があったのでインターフェイスのデザインの観点から考えてみたい。

七沢さんによると、ChatGPTに代表されるLLMなどのAIでは、西洋哲学に対する質問と、東洋哲学に対する質問に対して、AIの回答の正確さや質が異なるというのだ。
つまり、西洋哲学に対する質問の方がより正確な答えが得られる一方、東洋哲学に関する質問では間違った答えが出てきたり(ハルシネーション)、答えが得られないことが多いそうだ。
これは、AIを構成している学習データ自体の違いに起因していると考えられるそうだ。西洋哲学の文献ではある哲学者の考えが言葉で記述されて、割り切れるように整理されている。
ところが、荘子のような東洋哲学の文献(著書)では、問いが繰り返されていたり、複雑なものを複雑なまま受け入れたり、矛盾を内包する記述や考え方をして、その哲学的な問いに対する答えが明示されていないケースが多々ある。
そのため、西洋的な「世の中のことについては、どこかに、何らかの形で記述されている」という前提に基づいて設計して作られたAIでは、このような「問い」や「矛盾」で構成されている東洋的な哲学や、知識の記録や伝達方法へは対応できないというのだ。

これは非常に面白い事実である。

ここから思考実験で、生活のためのコンピュータインターフェイスの設計へと議論を展開することができるのではないだろうか。

つまり、複雑な計算を高速かつ正確に行うことを目的として設計され開発された計算機の延長としてある、現代のパーソナルコンピュータとそのインターフェイスに対して、人々の生活や感情、更には文化といった、論理だけでは割り切れないもの、そのはざまにあるようなものを対象とする”コンピュータ”があるべきではないか、そしてそのコンピュータを設計して作り出し、そしてその新しい生活のための”コンピュータ”と人、あるいは環境との間のインターフェイスは、今のコンピュータのそれとは全く異なる姿かたちをしているものが適しているのではないか。そのように考えている。

そこでは、数字の計算のような、人間でも行える理性的、論理的な活動に対して、
もっと「身体性」と「文脈」を内包したふわふわと掴みどころがなく、形の定まらない情報の交換に適した、インターフェイスが適しているのではないか。(「身体性」と「文脈」については、以下の記事で少し議論しています。)

このようなもの(新しいコンピュータと、新しいインターフェイス)が必要であるのではないかと考えている。そのための最初のステップとして、この新しいインターフェイスの原型となるものを、作れないかと考えている。
そして、これになりうるものの一つがmuiボードではないかと考えている。


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