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4-5-2:お金あつめとモトあつめ②(人生はなぜ辛いのか?と思った時に読む『モト』の話)

4-5-2【お金あつめとモトあつめ②】

ココロとお金の関係!?

 ほら、第一章で「ココロ」について初めて書いた時、僕はこう書きましたよね。

「ココロというものは、目には見えません。ですが、あなたにも、僕にも、そしてどの人にも確実にあるものです。」

 そう、ココロです。ココロは「目に見えないけれども、確実にあるもの」の一つです。
 そして、僕たちのココロは「モト」でできているんでしたね。僕たちのココロの材料であるモト、僕たちはそれを燃料みたいに消費してココロを動かしているんでした。
 さらに、ココロのモトが減るのは、他者とやり取りしているからでしたよね。相手に注目すると、そちらにモトが流れていきます。このときに感情が起こることで「減る」から、モトはココロの燃料のようなものなのでした。
 やりとり、というからには、向こうからやって来ることもあるんでしたね。こちらが相手の注目を引くと、向こうからモトがやってきます。そうしてココロはモトを増やすこともできるんでした。

 あれ?・・・さっきのお金の説明と、なんだか似ていると思いませんか?


お金の「真の姿」とは

 そうなんです! 「モト」という概念があると、「僕たちにとってお金とは一体なんだろう」「価値とはなんだろう」という、普段ぼんやりとしか考えていなかったようなことにも、明確に形が与えられます。すなわち

お金とは、モトの「劣化コピー」である

と考えられます。

 劣化コピーというのは、本物そっくりに作ってあるけれど、細部が本物より劣っているものを言います。アメリカに本社があるコンピュータ会社が出した新作のスマホにそっくりな、性能の劣る外国製のスマホのようなものを想像してください・・・。

 ともかく、お金には「モトによく似た性質」があります。ですが・・・みなさんもある程度ご存知のように「お金がたくさんあるからといって、幸せになれるとは限らない」のですよね。これにも訳があります。

 ココロにモトがたくさんあると、ココロは幸せを感じやすくなります。そういう機能だからです。ココロはモトが多いと感じた時、幸せな感情「安心感」を発生させるような仕組みになっているんでしたね。

 逆に・・・お金がいくらあっても、ココロがモトでいっぱいになっていないと、安心感は生まれません。もちろん、お金が少ないと、ココロのモトが減って「安心感」の反対である「不安感」が増すことが多いのですが、だからといって逆もしかり、というわけにはいかないのが、人間の不思議なところです。

 結局のところ、僕たちが「幸せを感じる」かどうかは、お金に余裕があるかどうかにかかわらず、ココロにモトがいっぱいあるかどうかによる、ということになります。

 そいういうわけで、僕はお金というものは、モトの「劣化コピー」だと考えています。モトと同じようなやり取りや集め方ができるけれども、集めたからといって「安心感」にたどり着くとは限らない・・・それがお金なのだと。


お金あつめと人生

 人生には、どうしてもお金が必要なシーンがあります。大金がドンと要る時だけでなく、普段の生活で食料を手に入れる時ですらお金が必要です。

 ですので、僕たちは人生の大半の時間をこの

お金あつめ

に費やします。そして日常的にこの「お金あつめ」を行っているので、時に僕たちは

「お金あつめ」こそが人生の全てだ

という、大きな勘違いをしてしまいます。

 第一章で『「アタマこそ私だ」というのは大きな勘違いだ』と書きましたが、このこともまた、僕たちの人生を辛くする「大きな勘違い」の一つです。


「お金あつめ」=「幸せ」という大きな勘違い

 社会を見渡すと、「人生の成功者」と言われた人のほとんどが、この「お金あつめ」が上手だった人です。この社会では、どんなに歌がうまくても、どんなに素晴らしい木彫りの熊を彫る人でも、それで「お金あつめ」が上手にできなければ、この「人生の成功者」の仲間入りをすることができません。

 そういう社会で生きている僕たちは、ともするとこの「お金あつめ」こそが、幸せな人生への唯一の道だと

勘違い

してしまいます。

 ですが・・・そう、これはあくまで「勘違い」なのです。なぜなら、幸せな人生を歩むために本当に必要なのは、劣化コピーの「お金」ではなく、本物の方、すなわち『モト』だからです。


僕たちが本当に集めたいものは何か

 大事なことなのでもう一度書きますが、

お金とはモトの劣化コピー

なんです。僕たちはお金を集めようとして日々あくせくしていますが、僕たちが本当に欲しいものはあくまで「モト」なんです。

 もちろん、僕たち人間は食事をとらないとお腹が空いてしまいますし、水を飲まないと弱ってしまいます。ですから、それらを手に入れるための労働、その代わりになる「お金」というものは、便利なものではあるんです。だから、ある程度までは「集めよう」とするのは理にかなっていると言えます。

 ですが、一生かかっても使いきれないような金額のお金・資産を持っていても、人間というものは「幸せとは何だろう」なんて考えてしまうものです。

 これは、お金というものが「モトに似ている」ものの「完全なコピーではない」ことを意味しています。お金だけを集めても、モトが集まるとは限らないのです。


好き嫌いゲージと「お金の量」

 ひるがえって、僕たちのほとんどがそうであるように、庶民はそんなにうなるほどお金なんて持ってないものですが、お金持ちと同じように「幸せとは何だろう」と考えて暮らしています。特に、お金に苦労している人はなおのこと、だったらまず「お金あつめ」を頑張ろう、と思いがちです。
 だって、お金は「モトに似ている」からです。たくさんあると、幸せな気持ちになれそうな気がしちゃうんですね。

 確かに、今は貧弱な衣食住が満足する機会があれば、きっと「幸せな気持ち」にはなるでしょう。そのときは「好き嫌いゲージ」がグイッと上がるからです。

 ですが、好き嫌いゲージは「下がる」こともあります。好き嫌いゲージというものは、モトが「減った」ことを検知すると下がります。どんなにモトをたくさん持っていていも、「その時の量」から「減る」と、ゲージが下がるのです。

 お金をたくさん持っていても、ずっと満足で幸せに暮らせる訳ではない理由はここにあります。好き嫌いゲージがマックスになる「モトの量」が、常に変化しているからです。同じ「豊かな経験」が、毎回同じ「好き嫌いゲージの数値」を出すとは限らないということです。

 だから、です。

 僕たちが本当に集めなければならないのは、お金ではなくてモトなのです。


お金だけではなく「モト」を集めよう

 第二章で好き嫌いゲージについて書いたとき、モトあつめについてこう書きました。

『モトのことを知っていようといまいと、また意識していようといまいと、僕たちは全員が日々「モトあつめ」を必死に全力でやりながら暮らしているのです。』

 ココロは自動的に、モトを集めようとする性質を持っています。これはアタマでどうこう考えてもどうにもならない、ココロというパーツの「機能」です。

 ですから、生きている以上僕たちはこの「モトあつめ」をやめることができません。そういう機能を持ったパーツが埋め込まれているからです。

 普段からいそいそと「お金あつめ」をする理由がこの「モトあつめ」の劣化コピーなのだとしたら、僕たちは一体何を集めようとしているのでしょうか。

 お金を得ることは大事なことですが、モトを得るためにお金を集めるというのは、実は結構非効率的であると言えます。なぜなら、僕たちが本当に集めたいものはお金ではなく「モト」だからです。どうせなら、はじめからモトの方を集めた方が効率が良いに決まっています。

 「人生が辛い」というとき、僕たちはこの「お金あつめ」に必死になりすぎていたりします。そんなときは、ちょっと手を休めて、遠くを見つめて、本来の「モトあつめ」に戻るといいかもしれません。

 実はね・・・お金ではなくてモトを集めることを意識して暮らしていると、「良いモトの循環」(第二章参照)が起こり、その結果として「お金が集まりやすく」なったりします

 というわけで、お金が欲しければまず、本家本元の

「モトあつめ」をしましょう!

(第四章完:次の章へ)

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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)