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【短編小説】時間の缶詰

ある人物の三行日記より抜粋

某月某日
『時間の缶詰』なるものが発明されたと、テレビのニュースで見た。使うとしばらくの間、なんだか時間をニ倍使えるらしい。よく分からないが、すごい発明には違いないだろう。一度試してみたい。

某月某日
『時間の缶詰』が、ついに一般に発売されたそうだ。どうやら中身はゼリーのようなもので、食べてからしばらくすると、時間の体感速度が1/2に縮むという。平たく言えば、一時間につき、ニ時間分の勉強や遊び、仕事ができるということで、実質「時間が二倍使える」という事のようだ。『時間の缶詰』、もうすぐうちの近くの百貨店にも並ぶだろう。楽しみだ。

某月某日
昼休みに『時間の缶詰』を試してみた。味はほろ苦いレモンのような感じで、特に不味くはない。食べて十分ほどで、時計の秒針の速度が、少しずつ遅くなっていくのが分かった。その効果は実時間で2時間くらい続いたのだが、その分仕事の時間がいつもより長くなった気がした。いや当然といえば、当然だが。

某月某日
『時間の缶詰』はとても便利だ。寝坊してバスに乗り遅れそうな朝や、締め切り前の書類作成時などに重宝している。睡眠不足を感じたときも、使えば少し長く眠っていられる。少し値段が高いのが難だが、まだまだ使い道はありそうだ。

某月某日
予想通り、『時間の缶詰』は社会現象になりつつある。各社がこぞって類似品の販売を開始し、味にもバリエーションが増えてきた。受験勉強中の学生や、連載漫画家などに多く売れているらしい。

某月某日
最近は『時間の缶詰』が、コンビニやスーパーでも気軽に買えるようになってきた。チューブ入りの新製品などは、もはや缶詰とは呼べないのかもしれないが、それでもこの『時間の缶詰』という呼び方は、既に大衆にしっかり定着してしまったらしく、チューブ状の商品にまで『時間の「缶詰」』と書かれている。いささか滑稽だ。

某月某日
とうとうわが町の自動販売機で、液状の『時間の缶詰』ドリンクが売り出されているのを、ちらほら見かけるようになった。値段もかなり下がってきて、今や子供のお小遣い程度でも十分に手が出るようになった。『時間の缶詰』は最早、本格的に普及したと言っても過言ではないだろう。今年の流行語大賞はこの『時間の缶詰』で決まりだろうか。

某月某日
気が付いたら、ほぼ毎日、『時間の缶詰』を利用している。朝起きて一缶、昼休みに一缶、仕事明けに一缶。だいたい日に三缶くらいたしなむ。持続効果も、初期の製品よりは随分長くなったみたいで、これでほぼ、一日中効果が持続する。大したものだ。

某月某日
『時間の缶詰』は、海外でも大ブレイクしているらしい。都市部を中心に、人類の一日が48時間になった、と新聞の見出しにあるのを見た。そういえば、気が付けば我々も、一日に48時間分活動していることになるのか。すごい時代になったものだ。

某月某日
時間をお金で買う時代が来ているという。確かにその通りだ。思えば、一日に三缶の『時間の缶詰』を消費するとしても、月単位で考えれば結構な出費だ。最初の商品に比べればずいぶん値下がりしたものだが、それでも、これだけ多用する日用品だから、もっと安くなればいいのに、とは思う。もしくは、もっと効果が持続して、一日一缶で済むようになれば、と。

某月某日
同じ事を考えていた者が多かったらしい。とうとう一缶で一日中ずっと効果が持続する『時間の缶詰』が発売された。一缶あたりでは少し割高になるのだが、一日三缶使用している者にとっては、実質的に値下げだ。ありがたい。

某月某日
『時間の缶詰』は世界中で大旋風を巻き起こしているらしく、そのおかげで新たな社会問題が発生しているという。『時間の缶詰』を買える層と、買えない層、要するに貧富格差が、そのまま「時間格差」として現れているのだそうだ。今後、一日が24時間の地域と、48時間に増えた地域とでは、生産性の差から、さらに貧富格差が、ひいては時間格差が深刻になるのだという。まるでSFだ。

某月某日
とうとうわが社でも、全員の『時間の缶詰』使用が決まった。会社に着いたら、入口で『時間の缶詰』が一缶支給され、それを使用した後仕事に入る。最近はもはや、家で『時間の缶詰』を摂り忘れ、なおかつ小銭がなく自販機で買えなかったら、一日中仕事に追い回され、地獄を見るようなことになっていたのだが、これで助かる。家計的にも万々歳だ。

某月某日
仕事の時間が倍になったが、余暇も倍になった。実時間あたりの仕事の効率も良くなり、かつ趣味に割ける時間も増えたわけだ。まさに『時間の缶詰』様様だ。とはいえ、もともと特に趣味などない者にとっては、余暇の倍増は、単純に仕事時間のさらなる延長を意味するのかもしれないが。

某月某日
うちの会社のように、全社的に『時間の缶詰』を使用する所が増えてきた。工場などでも、一般労働者全員に使用させる所が出てきた。一日が48時間になれば、3交代の操業も6交代に増やせるということだろう。最近では、国内企業の効率がどんどん上がっており、その結果社会の発展速度が急激に上がっていると言われる。確かにそうかもしれない。

某月某日
とうとう国連が、貧困地域に向けて『時間の缶詰』を援助することが決まったそうだ。これで、かねてから叫ばれていた「時間格差」が縮まり、そして貧困地域の経済発展が加速し、最終的には国際的な経済格差も縮まるだろうと言われている。まさにいいこと尽くめだ。

某月某日
毎朝一缶の『時間の缶詰』はすっかり習慣化し、これをやるとなんだか「今から仕事が始まるぞ」という気合が入るような気がする。一昔前のラジオ体操のようなものだろうか。そこから実質16時間分は働くのだから、思えば毎日長丁場といえば長丁場なのだが、仕事が終わったあとも32時間分の余暇があるわけだから、実時間で考えると、一日おきに長丁場をやる、といった感覚に近いのかもしれない。

某月某日
初めての一般販売からおよそ二年、あっという間に世界中で使用されるようになった『時間の缶詰』だが、ここまで普及してしまうと、これによって『時間が倍になる』ことのメリットは、ずいぶん薄れてしまったのではないかと、ふと思った。例えば、全員が競歩しているとき、もし自分だけ走り出せば、自分だけが先にゴールできるはずだが、もし全員が同時に走り出してしまったら、それは最早、ただの徒競走になってしまうだろう。つまり、『時間の缶詰』でドーピング効果を得て、競争力が高まるといっても、競争相手までドーピングで同じに速度なってしまっては、『時間の缶詰』の効果を得ることそのものに、意味がなくなってしまうのではないか。

某月某日
結局『時間の缶詰』とは、何なのだろう。全員が倍速で動くのと、全員が普通の速度で動くのと、どう違うのか、だんだん分からなくなってきた。社会でも、同じような感覚に陥る者が少しずつ増えてきているようで、だんだん『時間の缶詰』に批判的な意見もちらほら聞こえてくるようになった。いや、『時間の缶詰』が悪いのか、それとも使う人間が間違っているのか・・・。

某月某日
とうとう新聞やニュースでも、『時間の缶詰』不使用運動の団体などが、大きく紹介されるようになってきた。でも、これだけ周囲に使われている現状だと、今更自分だけ使わない、というわけにはいかない。ビジネスでも、自分だけ普通の実時間だと、倍速時間の周囲に迷惑をかけるのが目に見えているし、プライベートでも、余暇の時間が半分になってしまうのはゴメンだ。

某月某日
結局、『時間の缶詰』不使用運動も下火になってきた。仙人のような生活をしているならいいのかもしれないが、現代社会においては、もはや使わないという選択肢はありえないからだろう。今やビジネスの世界では、使わない、イコール、時間が半減、収益も半減。まさに「タイム・イズ・マネー」だ。発売初期の頃は、「お金を出して時間を買っている」ような気がしたものだが、今や「時間を使ってお金を維持している」と言った方が正しいのかもしれない。

某月某日
出端の頃は、使用するのが楽しみだった『時間の缶詰』も、今や好き嫌い・気分のノリに関わらず、誰もが毎日使用しなければならないものになってしまった。発売が開始された当初、一体誰がこんな事態を予想できただろう。『時間の缶詰』は今や「生活になくてはならないもの」という枠を超えて、空気や水、エネルギーのように「なくては生活できないもの」になってしまったのだろうか。

某月某日
ほんの三年程前までは、「もし一日がもっと長かったら、どう時間を使おう」と夢想したものだったが、今、それが現実となってみると、結局、時間というものは、いくらあっても足りるものではなく、あったらあっただけ消費してしまうものだったのだ、と分かった。総合的に考えると、仕事が倍になって、余暇が倍になったのなら、両方が元のままの時と比べて、さして生活が変化したとは言えないように思える。決して仕事の時間と比べて余暇が増えたわけではなく、また仕事の効率が良くなったから余暇が増えたわけでもない。結局、『時間の缶詰』を使っていなかった頃とは、何も変わってはいなかった・・・つまり我々は、最初から幻を見ていたに過ぎなかったのだ。

某月某日
今やもう誰も『時間の缶詰』をやめられない。やめることは、即、没落と死に直結すると言ってもいい。現代社会は、たった一つの発明により、たった数年で、毎日の食費を削ってでも『時間の缶詰』を買わないと、まともに生活すらできない社会に変容してしまった。確かに、私達の時間は倍になった。では、私達の豊かさは、果たして倍になったのだろうか。私達の幸せは、果たして倍になったのだろうか。もう、何が正しいのかは、誰にも分からない。だが、ただ一つ言えることは、今やもう誰も『時間の缶詰』をやめられない、ということだけだ。

某月某日
何ということだ。今度は「時間が五倍に延びる『時間の缶詰』」が発明されてしまった・・・・・・・・・この社会は、一体どこへ向かっているのだろう。



「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)