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1-7:【三つのパーツ】『ココロ』のはたらき(人生はなぜ辛いのか?と思ったときに読む『モト』の話)

1-7:【三つのパーツ】『ココロ』のはたらき

■『ココロ』の役割り

では次は「ココロ」というパーツについて見ていきましょう。

 この項目では、この本の初めからひんぱんに出てくる「モト」についても必然的に語っていくことになります。モトとココロには、とても強い結びつきがあるからです。

ココロは「感情」のみなもと

ココロは、感情をつかさどるパーツです。僕たちの感情は、このココロというパーツから発生します。

 ココロとアタマの違いについて先程書きましたけど、感情というのは、アタマから出てくるものではありません。考えて出てくるものはあくまで「思考」です。それは感情ではありません。

 感情は自動的に湧いてきます。面白い時につい笑ってしまう、悲しい時にほろほろと涙が流れる、ひどいことを体験して怒る、そういう時にココロの中から、自動的に湧き出ている「気持ち」というやつです。

 この「感情」「気持ち」が湧いてくる源にあたる場所が、僕たちが一人に一つずつ必ず備えている「ココロ」というパーツなのです。

 もちろん、先に説明した「アタマ」とこの「ココロ」は、密接に連携しながら動いています。

 感情が湧いてくる時というのは、まず「アタマ」の働きがあります。具体的には、何か周囲の状況を見聞き・体験して、それが自分にとって「どういう意味を持っているのか」をアタマが判断して、その判断に基づいてココロが感情を起こす、という順番です。

ココロが「感情」を起こすあらまし

ちょっと例を挙げましょう。

 道で知らない人とすれ違う時、ドン! と肩がぶつかってしまったとしましょう。相手は気づいているのかわざとなのか、知らんぷりをして立ち去ってしまいます。

 こんな時、ムッと怒りがわいてくることがあります。似たような経験、ありませんか?

 怒りが湧いてくる源がココロです。怒りはココロから沸き起こる「感情」ですから。

 ですが、その「感情」が起こるためには、その前に「出来事」とその「解釈」があるものなのです。

 まず、道で誰かと肩をぶつけた、という出来事がありました。ここまでは、ただの「出来事」です。

 その「出来事」について、アタマが「それが自分にとってどういうことか」という解釈をします

 もしアタマが「これは自分を攻撃する行為だ」と判断したら、自分を守るために、ココロが「怒り」という感情を出してきます。
(後で詳しく説明しますが、「怒り」というのは防衛反応です)

 こうして、この人のココロは「怒り」に満たされて、それ相応の行動をとろうとします。相手を呼び止めて怒鳴ったり、時に暴力的になったりするわけです。

ココロが出す「感情」が変わるとき

しかし、もしここでアタマが別の解釈をしたら、どうなるでしょうか。

 世の中、これと同じシチュエーションでも全く怒らない人がいます。怒るどころか、逆に相手が怪我をしなかったかどうかをを心配したりします。この「心配」も、ココロから湧き上がってくる「感情」の一種です。

 先の例「怒ってしまう」人とどこが違うのかというと、その人のアタマが「出来事」をどう解釈したのか、という点です。

 おそらくこの怒ってない人のアタマは、肩がぶつかった、という「出来事」をこう解釈しています。

「肩を「ぶつけて」しまった。相手に怪我をさせたかもしれない。」

 アタマがこう考えると、先の例で挙げた「相手に攻撃されている」という解釈とは異なる感情「心配」をココロが発生させるのです。

 注目していただきたいのは、これらの感情は「同じ出来事」をもとに発生している、という点です。

 同じ出来事に遭遇しても、アタマにとってその出来事がどういうことなのかという「解釈」が違うと、それぞれ違う感情がココロから湧いてくるんです。

 なので、こういうことが言えます。

「出来事」が「感情」を起こすのではない


人生が辛いのは「ココロ」のせい?「アタマ」のせい?

 僕たちは、世の中にある色々な物事に対して、さまざまな感情を持ちます。カッコいいミュージシャンに好感を持ったり、可愛らしい動物にほんわかしたり、ほかにも、服を汚してしまってがっかりしたり、政治のふがいなさに怒ったり。

 ですが、こういった「出来事」と「感情」の間には、さっきの例のように必ず「アタマによる解釈」が挟まっています。

 人生が辛い、というときは、この「解釈」に注目すると、人生を好転させるきっかけになることがよくあります。

 なぜなら、起こってくる感情とココロのモトの「量」には、密接な関係があるがゆえに、モトの「量」が増えるように上手にココロを動かすためには、「アタマの使い方」が重要だからなんです。

 先程の例のように、同じ出来事でも「怒る」人と「怒らない」人とがいます。怒るのと怒らないのとでは、ココロから流れ出る「モトの量」がガラッと変わります。ココロは「怒っている」とき、とても多くのモトを消耗するからです。

 日常生活でも「気力」みたいなもんを感じる時、ありますよね? 特に、何かに「怒る」時って、すごくこの「気力」を使うものだと思います。とても疲れている時なんかは「怒る気力もない」なんてことがあったりしますよね?

 そんな時は、ココロの燃料であるモトが足りないんです。怒るのにはとても多くのモトを必要としますので、本当に「気力(=モト)の『量』が足りない」んです。

 一度怒ってしまうと、ココロの持っているモトの量がガクンと減ります。減ってしまうと、ココロが疲れてしまいます。

 そしてココロが疲れてしまうと、幸せを感じづらくなります。なぜなら、僕たちが「幸せを感じる」時というのは、自身の持っているモトの量が「多い」とココロが判断している時だからなんです。

『ココロ』が「幸せを感じる」仕組み

これはとても大事なことなので、ここでもう一度書きます。

ココロにモトがたくさんある時、僕たちは幸せを感じるようにできています。


 これはそういう「機能」の問題なんです。僕たちのココロには「モトの量を測って、それに伴って気分や感情を返す」という機能があるんです。

 だから結局のところ「人生が辛いのを何とかしたい」と思ったら、モトをできるだけ集めるしか方法がないのです。

 モトの量と気持ちの関係は、次の章以降でもっと深く掘り下げていこうと思います。モトの正体と性質を理解しないと、その説明はちょっと難しくなると思うからです。

 裏を返せば、モトの性質と動きを理解すると、モトをたくさん集めたり、気持ちをコントロールしたりすることがずっと易しくなります。ですので、ちょっと難しい説明になると思いますけど、楽しみにしていてくださいね。

「ココロ」まとめ

というわけで、ココロというパーツについて書いてきましたが、ココロには僕たちが普段考えているよりも、もっと複雑な仕組みが備わっています。その「仕組み」については、モトの仕組みの話と絡めてお話していかないとなかなか理解できないと思いますので、ここでの説明はあくまで「アタマとの違い」という点にとどめておきますね。

 まとめると

・考えるのが「アタマ」
・感じるのが「ココロ」

というわけです。この違い、よく覚えておいてください。

(続く)

「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)