わたしなりの幸せは細胞として、体内で循環していること


わたしはちょっとしたことでも、

「ありがとう!」

という言葉を、ここ2年間自ら発している。

わたしが寒そうにしてたら、ミルクティーを買ってくれる友人に、

「ありがとう!」

いつも支えてくれる家族に、寝る前にリビングに手紙を書き

「ありがとう!」

など、日々のことを手紙とした形で感謝をしている。

「ありがとう。」

この言葉のおかげで、ちょっとしたことにも感謝ができるようになった。毎日の生活に昔より充実感や、生きる幸せを感じはじめている。

そして、最近ありがたいなあと思いこれは書き連ねたいと思ったことを一つ。


それは、トイレの清掃員さんの存在についてです。

私たちは日々、公共の施設では何不自由なくトイレを使えています。


でもそれって当たり前じゃないこと。

私たちが払っている税金が、清掃員さんたちのお給料にもなり、この社会が周っていることにも気づきました。

でもいろんな背景があるにしても、今では最低賃金も上がった中で、

他にもたくさん仕事はある中で、そんな中

みんながやりたくないような仕事をやってくださる方がいること。

この事実を忘れちゃダメだし、感謝しかないなあと最近感じながら、トイレを使わせてもらっている。


そして、清掃員さんたちはいつも申し訳なさそうに、

「すみません。すぐ清掃終わりますのでお待たせして申し訳ございません。」

姿勢を低くしながら、でも目の前の仕事をきっちり手早くこなす。そして自らが、トイレにいることを申し訳なさそうに掃除をしている。時に、文句を言うおばちゃんにも、真摯に

「お待たせして申し訳ございません。すぐ空きますのでもう少々お待ち下さい。」


時に、男性の清掃員さんがこれまた申し訳なさそうに小さくなりながら掃除している姿を陰ながら応援をするように見ていると、後ろからある女性が、まるで見下すかのように

「はやくして!」

と言い放った時は、わたしは本当につらかった。

自分の存在を肯定するわけでもない。この感情を持つわたしが善人と言いたいわけでもない。

ただ、わたしはこの言い表せない悶々とした感情があるのだ。なぜなら、男性の清掃員さんは1ミリたりとも卑猥な感情を持たず、むしろ真剣に自分の仕事をこなしている。

変わらず申し訳なさそうに。



わたしは思う。

言わなくてもいい。


直接言わずとも、いい。

ただ、トイレの清掃員さんたちのおかげで、今私たちが不自由なく社会を生きていることの要因の一つにトイレの清掃員さんたちが関わり、そして変わらず生活ができていることを、どこか頭の片隅に置いてくれていたら、わたしはトイレの清掃員さんではないが、うれしい。


そして、私はトイレの清掃員さんたちに喋る機会があれば直接日々の感謝を伝えたい。


「ありがとうございます」

と。


おわり。



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