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悩みを話す


 生まれてこの方、長期間通い続けて苦痛じゃなかった場所が存在しない。学校はもちろん、公文もピアノもスイミングも、自分で行きたいと思い始めた高校時代のゴスペルスクールも、全て時間が経つと辛くなった。

 慣れてきて、緊張が解けていっとき楽になる。その楽を味わったら、あとはじわじわと嫌になっていく。疲れて嫌になる。一体どうしてなのだろう?耐えられないほど、嘘をついて休まないとやっていけないほどしんどいのだ。休めない時は、自分がいる空間の隅から敵意のような…言葉に出来ない何か嫌なものが迫ってきて、居心地の悪さに呼吸が浅くなる。気持ち悪くなる時もあった。高校生の時は、用法容量を無視して日常的に頭痛薬を飲んでいた。そうしないと、とても教室にいられなかった。

 少し大袈裟に感じるかもしれない。仕方がないのだ、具体的にあの頃を覚えてるわけではないから。ほとんど記憶に残っていなくて、苦しかったのを体がすこーし覚えていて、それを文章にしようとすると上記のような表現になる。

 みんなそうなのだと思っていた。みんなそうで、それでも頑張っているのだと。我慢できない私は頑張っていないのだと。私が悪いことにすれば、1人でそう完結していれば誰も反論する者がいないから、長らく信じて疑わなかった。自分はいつからうつ病なのだろうと考える。 
 こんなことでは就職できない。どうしよう…。身近な大人は「やる前から怖がってもしょうがない」と鼻息が荒い。なんと残酷な、客観的正論なのだろう。

 不快感情が人よりデカいな思う時がある。どの場所でも感じた疲れはおそらく、教室を舞う土埃とか、遠慮のない噂話とか、そういったものに不快を重ねていった結果なのだろう。自分の理想まるごと再現された世界はあるか?金があれば作れるのか?岡本太郎のアトリエのように。
 せめて、何か武器があればな。

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