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映画、『落下の解剖学』を観ました



  母は毎年、WOWOWに1カ月だけ入ってアカデミー賞授賞式だけを見る。私も映画好きの母の習慣に甘えて、今年も授賞式を見たのだ。

 サンドラ・ヒュラーという俳優が印象に残った。彼女はそこで2つの作品に重要な役柄を演じていた。『関心領域』と、今回私が感想をつづる『落下の解剖学』だ。ちらちら再生される2種類の本編映像に現れる彼女の姿が気になって気になって、『関心領域』は怖すぎる、こちらも怖そうだが『落下の解剖学』を観ようと決めて映画館へ行ったのだ。
 賢そうな分析なんてできないけど。私なりに等身大の感想をつづろうと思う。


 雪山の山荘にて、1人の男が死んだ。山荘から転落し、頭を打って死んだ。山荘には男を含めた3人の家族が暮しており、作家の妻と視覚障がいのある息子が現場近くにいた。散歩から帰って来た息子が父親の遺体を見つける。昼寝をしていたという母親を呼ぶ。
「3階の窓から落ちたみたい」
 しかし男は不審死と判断され、のちに母親は殺人罪で起訴された。映画の大半は、1年以上かけて行われた裁判の様子を映したものである。


 観終えてまず思ったことは、「事実がわかりようのない事件もある」ということだった。当たり前である、普段ミステリーを読んだり観たりしすぎて
忘れがちなことだ。私たちは主観を共有できない。死者は法廷に現れない。

 結果、事実を決定づける証拠は無いのである。裁判は長引き、疑われる妻と息子を際限なく傷つけていく。視覚障がいのある少年ダニエルの顔つきが、裁判が始まってから1年経って息を呑むほど大人びてしまって、それが痛々しかった。

”状況から判断するしかない”

 法廷劇を観て初めて「裁判なんて無ければいいのに」と思った。人間の落下を調べる解剖学も、わずかな現場の人間(なんせ被疑者の他に1人しかいないし、彼もその瞬間は散歩に出ていた)の証言も、事実を明らかにするには至らない。誰もがそれをわかっているはずなのに、結論を求めることを人は自重できないのだ。特に、モザイク状に認識する「世論」とか呼ばれる大勢の人間は。

 サンドラ・ヒュラーの演技は、リアルでそっけないのに迫力があった。あんなリアルに泣く人を初めて見たと思う。作家志望の夫とベストセラー作家の妻という、精神的なバランスの崩れた夫婦だった。それでも、妻は夫を愛しそれを伝えて、口論になっても辛抱強く夫の相手をした。
 ただ、彼女は決して「優しい」人間ではない。精神のバランスを崩した夫に対してひたすら現実を説くのは、人によっては「鬼畜」と捉えるかもしれない。しかし、彼女は夫を愛していて、受け入れていた。だってインタビューの仕事が出来なくなるくらい大音量で音楽を鳴らす夫に文句を言わないなんて、愛が無ければ無理じゃないか。

 人の人との繋がりの強い部分、脆い部分を見た。主観は共有できない、愛し合っていても心が通じなくなることもある。それでも、愛を持って信じることだってできるのだ。法廷で息子を見つめる母から、家で母の帰りを待つ息子から、そんな心の動きを見て取ることができるのだ。
 細かいニュアンスを理解するためには、文字数制限のある字幕では不十分かもしれないなと思う。まあ、英語とフランス語が両方同じくらい出てくるんで、字幕なし視聴を目指すのは夢のまた夢なんですがね。


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