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「死ぬ気で頑張る」の、本当の意味。

久々のnote更新。
見返したら3つしか書いてなくて、そのうち2つは「死」に関するもの。
そして今書こうとしているのも「死ぬ気」の話😅
客観的に見ると、「この人、死ぬことばかり考えてるのだろうか」と思うけれど、Twitterに書くには長すぎるし、重い内容なので、必然的にnoteに辿り着いただけの話であることをお断りしておきます🙇‍♀️

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今年は自分の中で「死」に直面する機会が多い年だった。
前回の記事に書いた祖母は2月に亡くなり、当時の喪失感はだいぶ落ち着いてきた。
ただ、喪中はがきを受け取った方からお心遣いをいただき、今また“あの時”の場面が臨場感をもって再生されている。

そして、社会的に見ると、安倍元総理が銃撃されるという事件があった。
人の命に重い軽いはないけれど、あれほど様々な保護を受けている人でさえ、あんなにあっけなく命を失ってしまうのかと、大きな衝撃を受けた。

人の命は儚い。
ありきたりな言葉だが、いざその場面に立ち会うと、まざまざと実感する。
さっきまで存在していた肉体が、あっという間に消えていく。
声も笑顔も握った手も、思い出の中の感触だけになっていく。
そうなると、生きて四肢を動かして自分の思う通りに過ごしていることのほうが不思議に思えてくる。
いつかこの肉体もあっけなく消え、存在していたことも忘れられていく。
ならば、今与えられたこの時間を、もっと大事に生きなければ。

「死ぬ気で頑張る」という言葉がある。
今まで、汗水垂らして力一杯、がむしゃらに頑張ることだと思っていた。
でも、今ふと思う。
「死ぬ気で」って、「自分が死ぬ事実を悟って」という意味なんじゃないかと。
覚悟を決めて、静かに黙々と、自分の決めた目標に向かってやることをやる。
そんな“静かな”闘志もまた、「死ぬ気で頑張る」ことだと思うのだ。
覚悟を決めた人は、強い。

でもまあ、実際に「死ぬ気で」毎日生きていたら、ストレスで死んでしまうかもしれない。
人に忘れる機能が備わっているのは、ストレスを乗り越えるためだろう。
実際は、毎日「今日だけを生きる気で」頑張るくらいがちょうどいい。
きっと。

今日も「生きる気で」頑張ろう。

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