怒り

 「あなたの言葉の温度は、何度ぐらいでしょうか」

 この問いかけにハッとさせられた。自分の言葉はいったい何度なのだろう。考えてみる時に、私は自分の持つ「怒り」の感情をベースにしてみた。私にとって怒りとは、体力をすり減らすマイナス的なものであり、はたまた自分の人生において必要不可欠なエネルギー源でもあるのだ。矛盾していると指摘されたらそれまでだが、それくらい「怒り」が持つパワーは私にとって偉大であり最大の敵なのである。

 幼少期から感情的な子供だったように思う。人の痛みに寄り添うことも出来るが、その分誰かに傷つけられ、傷つけてきた。私の人生を人生ゲームに例えると、まず幼稚園で一回休みになる。今考えてみても何だったんだろうと思うが、私はこの時期に「顔が良い子はひいきされる」ということを学んだ。先生の接し方が違う。挨拶が違う。仲良しだった子が挨拶をすると先生はあんなに笑顔になるのに自分の時はなぜ違うのだろう。今でも鮮明に覚えている、私は幼稚園が大嫌いだった。しかし、その分今の生活にも役立つ知識を得ることが出来た。笑顔は大切、他人にはにこにこ可愛く素直に、というような。

 小学校に入学すると、よくあるいじめ期に突入した。やられたら他の人に当たることで解消しようとする。自分の感情を素直にコントロールできなかったのだろう。幼稚園から始まった人生の大波は、小学校でも続いた。溺れながら毎日を必死に過ごしていたのである。

 中学校に入って、私の人生で最大のスティグマになる経験をする。ドロドロと静かに、しかし永遠に私の奥底で煮えたぎっているこの火山が消滅することはあるのだろうか。やがてこの経験は高校時代にした1つの決断のきっかけとなった。

 周りとの精神年齢がやっと対等なものになり、私の生活はどんどん息がしやすい穏やかなものとなっている。そんな中でも私は「怒り」を忘れない。「怒り」で自分の生活をコントロールしている。もしかしたら、コントロールされているのかもしれない。

 私の言葉は冷たくない。相手に熱いと気づいてほしいという熱量と気づかせてやるという熱量で常に爆発寸前かもしれない。相手をやけどさせるのと同時に放つ自分も大やけどなのだ。言葉にしてみるとすごく頭が悪そうだが仕方ない。それが自分なのだから。

 *「言葉の温度」 イ・ギジュ 米津篤八 訳


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