子どもの感情に色を付けることをやめよう

 つい1か月ほど前、2歳の娘がいつものように外で遊べなくなった。
 正確に言うと、娘はその年齢と見た目とは相反して、社交性があり、比較的どの子どもとも楽しく遊ぶことが出来ていた。どんな見かけ、年齢、性別、国籍でも、話す言語が異なっていても、彼女なりに上手くコミュニケーションを取って平和に関わっていた。

 でも、だんだん今まで遊んでいた友達が保育園に通い始めたり、彼らが違うお友達と遊ぶことを好んだり、状況が変わっていった。我が娘のことながら、その変化は結構急で、残酷に見えた。娘はだんだんいつもの場所で遊ぶことを拒むようになり、すぐに「もう帰る」というようになった。

 ある時、いつも仲良しだった中国人の女の子を見つけたので駈け寄ったら、その子は年上の中国人の他の友達と遊んでいて、娘の事は気に留めていないようだった。(子どもだから、そういうことになってもおかしくないのは母としてもわかっていた。)

 すると娘は、その子から自然に身につけた中国語と思われる言語で、まっすぐな目で、たぶん「あなたと会えてうれしい。遊ぼう。」というようなことを小さな声で言った(と思う。私は中国語を話さないので時々娘が話すそれが全く分からなくて悔しい。娘が中国語を話しているかどうかは、その女の子のお母さんが教えてくれる。)

でも、その子は振り向くことはなかった。夢中だったから。

 娘は悲しかったと思う。このような社会的な「悲しさ」をまさかこの小さな体で経験するとは。わかっていたものの、母親としては、それが自分の事のように心にグサッと来た。(繊細な母親である。)

 「もう帰る」といい、その場を私たちは立ち去った。それ以上でもそれ以下でもない感情を、爆発させることなく、娘は驚くほど冷静に判断して、行動に移した。帰ってから、母親の私の方が動揺して、娘を慰めたくなったほど。でも上手い行動と言葉が思い浮かばず、「お母さん抱きしめたくなったから、抱っこしていいかい?」と言ったら、こくりと頷いて、両手を広げて、むしろ私を抱きしめてくれた。
 
 次の日、娘は朝から少し機嫌が悪かった。私にはその理由がわかったように感じていたけど、どうしたらいいかなと、抱きしめたり、とにかく傍にいようと心掛けた。そんなことをグダグダしていたら、娘から突然「キブータンカーしたい!」と大きな声が聞こえた。最初は何を言われているのかわからなくて、何度か聞き返すと、それが「気分転換」であることが分かった。

 そうか、そうだ、気分転換だ。いこういこう。
 うちにいても何も変わらないもの。いこう。

 そうして、足早に出かける支度をして、いつもより遠い公園に家族で行くことにした。知り合いがいるかどうかもわからない、何があるかもわからないその公園で、娘は久しぶりに思いっきり自分を解放して、遊び倒した。

 傍でその姿を見て、私はただただ、この娘の感情の流れを感じて、温かく、また誇らしく感じた。でもそれを形容する言葉が浮かんでこなかった。

 娘という一人の人間の、目に見える事の無い魂の動きに、違う人間である私が言葉でそれを形容する必要なんてないんだな、と思った。家族でも、そうでなくても、それは1人の人間として尊重されるべきことだし、自分の言葉で表現できるようになったり、表現したいと感じたら、すればいい。今となっては、娘がこの公園に来るまで、本当に悲しかったのかも、怒っていたのかも、幸せだったのかも確かではない。それは、娘が決める事だったと、ハッとさせられた。

 娘と生活していると、私が彼女の母親という肩書に甘えている部分があるなと度々感じさせられる。私は、彼女の母親であることは間違いない。でも、毎日一緒の時間を過ごしてくれること、無償の愛を与え、求めてくれることが奇跡であることを今もう一度認識したい。一番の味方でいたい。私が彼女と共にする行動の原点が、純粋な愛であることを祈りたい。社会的なプレッシャーや、見栄ではなく、同情ではなく、尊厳であり愛でありたい。

 あなたの感情はあなたが選ぶことが出来て、あなたの好きな色で色づけることが出来るよ。

 いつもこの心持ちでいたい、わたしはそういう、母親なのだ。

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