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【小説】トランジット 第4話

桃園空港から台北駅へと向かう列車は、空港の地下にある駅を出発してしばらくすると地上に出た。外は霧雨が降っていて、車窓から見える桃園の街はその白くにじんだ世界の中に浮かんでいた。新しいビルと古いビルが不規則に建ち並ぶ街並み、建設中の高速道路やショッピングモール、視界を通り過ぎてゆくそれらは特別珍しいものではないけれど、日本の景色とは少しずつ違っているように見えて、やはり異国に来たのだな、などとぼんやりと考える。

僕はあの夜、大津と別れた後すぐに、ハルにメッセージを送った。ただ、『近々そっちにいってもいい?』とだけ。ハルからは『OK!いつでも』と返事が来た。

大津とのことは何も書かなかった。

大津はあの夜、自分のことをよくしゃべったけれど、僕が聞きたかったことは何も話してくれなかった。ふとしたときに感じる呼吸の乱れ、息苦しさ、そしてずっと続いていくように見える安全で清潔な日常に、途方に暮れる気持ちについて。大津はもしかすると僕以上に息苦しさを感じていて、切実に息ができる場所を探していたのではないか、とも思う。
ただ、苦しんでいて何かにすがりたい人間というのはきっととても騙しやすい。大津は自分を野生のカマスに喩えたけれど、長谷川から見ればきっと小魚に見えたに違いない。僕はそんな風にからめとられ、食い物にされてしまった人間を大津の他にも何人か見たことがあった。そして自分が食う側にまわった人間も。僕はそういう人を見るたびに、この世に逃げ場など無いのかもしれない、思う。逃げるつもりが、ある地獄から別の地獄へと移っているだけなのかもしれない、と。

あの夜僕は大津のことをおいて帰ってしまったけれど、もしあの場にとどまっていたらどうなっていたのだろう。一瞬だけ目を合わせてくれた大津に、僕はどんな言葉をかけるべきだったのだろう。

さっきより強くなった雨が列車の窓にざあっとあたった。

列車は熱帯植物が茂る林と、郊外の街を交互に車窓に映しながら進み、やがて台北駅に着いた。空港のショップで買ったSIMカードをスマートフォンに差し込むと、ハルからメッセージが届いていた。

『無事着いた?』

飛行機の到着予定時刻ぴったりに送信されている。

『今台北駅に着いた。これからホテル』と返信する。

ハルが住んでいる瑞芳という町は台北からは少し離れたところにあって、僕は初日はひとりで台北に泊まり、2日目に瑞芳でハルと合流することになっていた。

台北駅を出たときにはまだ雨が降り続いていたので、ホテルまではタクシーを使うことにした。タクシーの客待ちの列の中からドライバーが優しそうな1台を探して乗り込む。

「うぉーしんちゅーずぁり」

スマートフォンのマップを指さし、『旅で使える中国語ハンドブック決定版」で覚えたばかりの、「ここに行きたいです」という意味のたどたどしい中国語を使ってみる。僕の中国語が通じたのか、単にジェスチャーで理解したのかはわからないが、ドライバーは親指を立てて微笑んでくれた。そのあとも、彼は何やら中国語で話しかけてくれたけれど、内容がほとんど聞き取れなかったので、僕はあいまいな微笑みと頷きで返した。

僕が中国語をあまりわからないのだと気づくと、今度はジェスチャーと簡単な単語だけで話してくれる。僕も「いいね」とか「行ってみたい」とか少ない語彙で相槌をうつ。僕と彼の間では大枠の言いたいことと敵意がないという気持ちさえ伝われば十分だ。お互い伝えることだけに必死だから、細かなニュアンスをくみ取ったり、言葉の裏の意図を探ったりということに気を配っている余裕はない。言葉がわからないよそ者であるということは不自由なようで、案外気が楽で自由なことなのかもしれない。

ホテルは想像していたよりずっと綺麗だった。

自分の部屋に入り、ベッドに倒れこむと、自覚していなかった疲れが一気に全身にのしかかってきて、僕は呼吸が深くなっていくのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。一息吸うたびに、じんわりと暖かいものが胸のあたりから全身に広がっていく。遠くに来たのだ。僕のことを誰も知らない遠い場所に。言葉の通じない街に一人でいるというのに、僕はなぜだかとても安心していて、久しぶりに翌朝まで深く眠った。

瑞芳の駅に迎えに来てくれたハルは以前より少し日に焼けていた。

「今日は猫の村にいきます」

僕に会うなり、ハルが言った。

「猫の村?」

てっきり瑞芳の近くのメジャーな観光地の九份にでも行くものだと思っていたから、少し面食らった。

「そう、猫の村」

ハルはもう一度うれしそうに言うと、路線図の「猴硐(ホウトン)」と書いてある駅を指さした。

「ここに高木を連れて行きたかったの」

ほかに何も教えてくれず切符を買おうとしているハルに、説明を求めるのも野暮な気がして、僕も大人しく猫の村行きの切符を買った。ハルは券売所の女性となにやら楽しげに話をして彼女に笑顔で手を振ったあと、僕に「行こ」と言って、改札を抜け、スタスタとホームの階段をのぼりだした。ハルの迷いの無い足取りや、話をするときのリラックスした笑顔は周囲の空気となめらかに溶け合っていて、この街で暮らしている人の所作だな、と思う。台湾にもこの街にもまだ慣れていない僕の身体の周りにはきっと、よそ者の少し緊張した空気の膜がうっすらと張り付いている。それを周囲に悟られるのが恥ずかしく、できるだけ自然に振る舞おうとするけれど、意識することでかえって足取りはぎこちなくなった気がした。

瑞芳を出て10分もしないうちに列車は猴硐の駅に着いた。

線路をまたぐ歩行者用の通路を抜け、駅を出ると、坂と階段と、山の斜面にぽつりぽつりと建つ民家がこちらを見下ろしていた。

山の方に向かって伸びている階段をのぼっていくと、やはり猫の村というだけあって、民家の塀の上やら屋根の上やら、いたるところに猫がいる。

ハルは少し歩いては塀の上の猫に話しかけたり、しゃがみこんで階段で寝ている猫のお腹をくすぐったりした。

「これって飼い猫なの?野良猫?」

僕が尋ねると、ハルは猫のお腹に集中したまま

「うーんどうだろう、っていうかそういうのあるのかな?」

と聞き返した。

「そういうのって?」

「飼い猫とか野良猫とか。だってそれって人間が勝手に言ってるだけでしょ?猫は本当は誰のものでもないじゃん。だから人間が区別しないで、なんとなく一緒に暮らしてるなら、野良猫も飼い猫も無いんじゃない?」

「はあ、なるほど」

人間と一緒にこの村の一員として暮らしている「村人」ならぬ「村猫」みたいな感じなのだろうか、などと無理やり納得する。

ずいぶんとぼんやりとした話だなと思ったけれど、村の中をぷらぷらと散歩をするうちに、ハルが言っていることが少しわかってきた。

この村は確かに、いろんなものの境界がはっきりとしていないように見える。猫も人も自然も古い民家も全部が緩く溶け合っている。そんな村の空気の中に、僕の中のいろんなものを分ける窮屈な仕切りも溶けだしていくような気がして、それが少し心地よかった。

ハルはずっと飽きずに猫と遊んでいたけれど、さすがに7月の台湾の暑さと急な階段をのぼった疲れでバテてきたのか、「少し休もう」と言った。

村にはところどころ小さな川が流れていて、その川沿いにはちょうど座れるくらいの高さに石のブロックが積んである。僕とハルはそこに並んで腰かけた。そこは小さな木陰になっていて、葉っぱの隙間から差す光が僕とハルの手の甲や顔の上でちらちらと踊っている。

「いいでしょ、猫の村」

「うん、なんか緩む」

いつの間にか僕の身体の周りを覆っていた緊張の膜は溶けて無くなっていた。

川下の方から吹いてきた少し強い風が、ざあっと頭上の葉を揺らす。

「あー涼しい」

気持ちよさそうに目を細めるハルの小さい足は地面まで届かず、空中で楽しそうにぷらぷらしている。こんなにも僕が緩みきっているのは、眠気を誘うような南国のぬるい空気と、野良猫か飼い猫かわからない猫と、たぶんハルのおかげだった。

「俺さ、ハルみたいな人って他に会ったことない」

「私みたいなって、どんな?」

「どんなって言われると難しいけど…そう思ったのがいつからかは覚えてる」

「へえ、いつなの?」

「新入社員の自己紹介の時」

「え、なんかあったっけ?」

「『世界で一番好きなものは打ち上げ花火です』って言ったんだよ。ハルの自己紹介その一言だけ。そんな自己紹介初めて聞いた」

少なくとも大人になってからは、『世界で一番』なんて言葉をあんなに堂々と使う人を見たことがなかった。

「そっか、私そんなこと言ったか。まあその時はそうだったんだろうね」

「え、覚えてないの?あんなにはっきり言い切ってたのに。案外いい加減だな」

自分が使う言葉に無自覚なやつが嫌いだと言っていたのに、と言いかけたけれど、それは意地悪な気がしてやめておいた。

ハルは少し考えて、

「厳密であることが大事なわけじゃないんだよ」

と言った。

「その時本気かどうかが大事なの。私はその時、世界で一番打ち上げ花火が好きだって本気で思って言ったんだから、いいんだよ」

なんだか屁理屈のようでもあるけれど、ハルの言葉には妙に説得力がある。こういう矛盾しているように見える言葉や屁理屈みたいなものも全部含めてハルという人間をつくっているのだろう。

「高木が世界で一番好きなものは?」

僕は少し悩んで、ふと頭に浮かんだ言葉を答えた。

「トランジット」

「あはは、なにそれ?なんで?」

「トランジットの時間って空港の外に出られないでしょ?ぼーっとしているか本読む位しかできないんだけど、それでも許してもらえる時間っていう気がして、それが一番自由だなって思うんだよね」

「えー、いつでもぼーっとしたり本読んだりしたらいいのに」

ハルがいかにも不思議そうに言う。なんともハルらしい意見だ。

「うーん、何してもいいよって言われると俺は『有意義なことをしなきゃ』って思っちゃうんだよね」

「そっか、高木はまじめだね」

まじめ、というのは僕を知る人が、僕という人間を評する時に一番良く使う言葉なのではないかと思う。でも、僕自身はその評価をあまり気に入っていない。

「それって褒めてる?貶してる?」

「別にどっちでもない。ただそうだってだけ。良いとか悪いとかないよ、高木がそうだってことに」

「でも俺って、一言でいうと『まじめ』になるの?それはなんか嫌だなあ」

「人間って一言で表すもんじゃないと思うけど…うーん、あえて言うなら高木は『いいやつ』かな」

「ええ、それも嫌だなあ。いい人って気が弱くて優柔不断で周りに流されやすい人に仕方なく使う褒め言葉って感じ」

言ったあとに、少し卑屈すぎたかなと反省する。ハルにそんな意図がないのはわかっているのに。

「だから、褒めるとか貶すとかそういうのじゃないよ」

それに、とハルが続ける。

「私が言ったのはいい人じゃなくて『いいやつ』」

「それ、何か違う?」

「全然違うよ。そんなこともわからないの?」

僕は次の言葉を待っていたけれど、ハルは、よし行こうかと言って、座っていた石のブロックからぴょんと降り、歩き出してしまった。

それから数日間、僕はハルが働いているゲストハウスに泊まり、瑞芳の街や周辺の観光地を巡った。

僕が日本に帰る日の朝、ハルは瑞芳の駅まで送ってくれた。少し早く駅に着いたので、僕とハルは駅のベンチに腰掛け、台北行きの列車を待った。

「ちょっとは気分転換になった?」

「うん、だいぶ」

「それは良かった」

「ハルはこの後どうするの?まだ当分ゲストハウスを手伝うの?」

「いや、もうちょっとここで働いたあと、今度は台南の方で暮らしてみようと思ってる」

「そっか。ハルはいいなあ、自由で」

自分の口からぽろりと出た言葉は本心だけれど、とても不用意なものに思えて、「いやもちろん大変なこともあるんだろうけど」とか「自由っていうより大胆というか勇気があるというか」などと、ぶつぶつと言い訳みたいに言葉を付け足した。

ハルはそんな僕を見て少し笑ったあと、

「私は自由で、高木は自由じゃないの?」

と言った。

僕は自由じゃないのだろうか。いや、違う。僕はきっと安全な場所に居たいだけなのだ。本当はなんだってできるしどこにだって行けるとわかっているのに。

「いや、違うかな。結局自分が変わらないといけないっていう単純な話なんだと思う。自分を息苦しくしているのは自分だし、自分がこういう人間である限り息苦しいままなんだと思う」

僕が真面目で慎重で優柔不断な「いい人」でいる限り。安全な場所にいて、息苦しいと呟いている限り。

ハルは「こういう人間、かぁ」とつぶやいて、少し遠くを見るように目を細めた。

「高木がどういう人でありたいのか、とかよくわからないし、高木が変わりたいなら変わったらいいと思う。でも、自分がどういう人間かなんて、今この瞬間に変わっていくものだと思うし、言葉でなんでも解ろうとしなくていいと思う。優柔不断とか、優しいとか、日本人だとか、トランジットが好きだとか、そういうことを全部足していっても高木にはならないよ。」

変われと言われているのか、変わらなくていいと言われているのか、ハルが僕に何を伝えようとしてくれているのか、僕には半分くらいしかわかっていないのだろう。多分、聞いてみても「そんなこともわからないの?」と言われてしまう気がした。

でも、もしハルが言う通り、自分という人間が今この瞬間にも変わっていくものなのだとしたら、僕は安全な空港から抜け出して、外の世界を歩いてみたいと思っているのだろう。

うん、ありがとう、と言おうとしたとき、ハルが

「あ、もう列車来るよ!」と電光掲示板を指さした。

気づいたら列車の出発時刻まであと1分だった。

「やばっ」

これを逃すと次の列車は1時間後だ。

急いで荷物を背負い、じゃあいろいろありがとう、とハルに雑なお礼を言い、走って改札を抜ける。

「高木」


ホームの階段に向かおうとしたとき、ハルの声が後ろから聞こえた。

ハルの方を振り返ると、大きくて黒い瞳がまっすぐに僕を見つめていた。

「あのさ、高木。『いいやつ』っていうのは、友達でいたいやつってことだよ」

また来なよ、とハルは笑った。





続く

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