見出し画像

死別による不在とその代替品について 1/2

 昨年末、大晦日。私は締め切りが間近に迫る修士論文をどうにか終わらせる目処をたてなければならないと躍起になってモニターにかじりついていた。正月休み明け、指導教官には休み中まですっと論文に付き合って頂いて申し訳ないやら情けないやら、と思いつつ大学に行くと、同じゼミで同じくM2の子のほうがもっとヤバい状況だったという話と、それでも色々と面白いアイデアが出て、なんとか一緒に修了できそうと聞いた。ほっとした。同じ代で修了を迎えた彼の修論は震災以前と以後の文学研究とのことで、具体例として挙がってきた具体例としての作品の中に『かくう生物のラブソング』があった。

 自分の修論も無事に書き終え、時間ができたのでkindleで読んでみた。

 舞台は2020年の茨城県、関東大震災と隕石の落下が相次いで起こり、非常事態宣言が当たり前のようになりつつも「ふつー」に過ごす女子高生の話である。その女子高生の群れの中には頭部が損傷したりしている「ゾンビ」がいて、彼らは隕石に付着していた生き物の身体を乗っ取る微生物にいわば「乗っ取られて」いつつも、日常生活に紛れて暮らしている。

 この記事からわりと詳しく知ることができるが、kindleですぐ読めるので良かったら読んでみても良いと思う。ちなみに、「一部のメニューで営業中」のバーガー店の描写など、少し現実の2020年とも似ているところが見つけられる。

 一応本文から少し引用して、ゾンビがどのような設定で考えられているか、確認しておくと、

 一ヶ月前の政府の発表はこうだった『落ちてきた隕石にはなにがしかのウィルスのようなものが付着していた それが一体どういう物なのかは現時点では特定不可能であるが ”それ”はどうやら人間の死体に対してのみ機能するらしい ”それ”は人間の死体に入りこむと またたく間に増殖を繰り返し身体の機能を回復させ 死体の魂をも復元する』(ただし体温・脈拍はない)
『政府統計では今回の死者 市内外含め513人 その全ての死者が再び起き上がり多少の不備があれどまた社会に戻った 故にこの513人の死者は死者とは換算せず ”還って来た者”として扱うことにした 』

  というような説明で、あとは漫画を読めばわかる通り、帰還者たちを含んだ日常にはコミカルささえ漂う。

 さて、死者について考えてみようと思う時、私にとって個人的に最も身近な死者は、家族である。私の近親者は2年前の大晦日に亡くなっている。修論に苦しんでいたのとちょうど同じ日である。なんとなく一般的な「大晦日的演劇」(大掃除をしてテレビを見てコタツに入るようなやつ)に参加したくないために作業に没頭していたと言えなくもない。なんといっても2年前の大晦日は、葬儀会社に電話して年明けの焼き場の状況を確認したり、棺に入る前に何を着せてあげるか頭をひねったりした変わった日だった。

 身近な者が亡くなった体験を伝え聞いたものに「いつも一緒にいるような感じがする」という話がある。確かに、身近な者の死去は、正直言って、私の場合、どこか安定感があるものになりつつある。というのは一つには闘病の末の逝去だったため、病気の苦しみからの解放であるというものでもあり、また、知り尽くした相手が自分の中で何度でも知っている情報の集積によって脳内で再生されるために、例えば現実には起こるかもしれない(ほぼ起こらないかもしれないけど)、反目しあう関係になる、などの「かもしれない未来」に巻き込まれないためである。

 死者は不在であるために、いつでもかつて居たときのままに、生きている方の自分の中にありありと思い浮かべることのできる身近な、自分の中にあるものになるのである。これは個人的な感触だが、なんとなく同意する感覚を持つ人も多いのではないか。

 では『かくう生物のラブソング』における帰還者たちはどうだろう。彼らには脈拍や体温は無いけど身体があり、その「魂を復元」しているという。つまり一度死んで、理屈はわからないけど生きているということだ。不在ではない。

 『かくう生物のラブソング』によれば、彼らはゾンビたちを含む、日常のパロディを送っているという。確かに、内臓にも脳にも損傷がある彼らが同じ教室にいる「日常」は、どう見ても異常である。彼らを生きているものと見なしているのはその家族であったり友人であったりする親しいものの「正常性バイアス」と言うようなものでもあるだろう。不在であることよりも、その代替品に見える別の何かに、かつて居た者の役割を担ってもらおうとしているということになる。もう本当の生きていた者はいないのに、である。

 

 思っていたより長くなってきたので、後半に続きます。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?