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不安なままでいるのが不安な夜には(瀬戸内にて、雑記)


職場で泣いた

 職場で泣いた。
 原因はいくつもあった。

 直近の仕事がストレスだったこと。中長期的に職員に求められるスキル・姿勢が見えているけれど、それを身につけたいと思えなかったこと。周りがみんな優秀で、自分はこの仕事が実は苦手で、逃げたいのに、平気な顔をして、頑張りますと言い続けるのが、自己と乖離して辛くなってきたこと。仕事にはフルコミットするべきだという理想と、やる気が出ない自分。その板挟みで毎日自分を責める気持ち。自分が選んだ仕事だから、その仕事の本質的な部分に不安や不満があっても、誰にも相談できないこと。

ススキは折られた

 自分は弱い。
 弱さゆえの強さ、つまり、弱さを認める強さがあると信じてきた。ススキのように、もうダメだ、辛い辛いと吐き出しては、ふいにケロッと立ち直る。このしなやかさが持ち味だと自負していた。

 今回は、駄目だった。
 20数年生きてきた自分の選択への責任が、どう振る舞うべきかという社会的規範が、頭に鉛のようにのしかかってきた。それなのに、心は赤ん坊のようにイヤイヤを繰り返し、逃げたくてたまらなかった。不安を感じすぎてある種の神経症のようになっていることも、逃げるための演技のような気がして、自分で自分を疑うことになった。

やけになって

 李禹煥美術館へ行こう。無限門の前に立とう。瞑想の間で自分の気持ちを見つめ直そう。最初の予定をキャンセルして、1人で瀬戸内に向かうことにした。

 気づけば足は四国汽船、宇野港へ。
券売機で宇野・直島の往復きっぷを買った。廃ビルを改装した、海の見えるホステルにたどり着く。

 大音量で響く下階のパーティのビート音。錆びた鉄格子の窓枠。ペンキの飛び散る床や、共用部分にあっさりと置かれたラタンチェアとストレリチア。普段ならエキゾチックに感じて喜ぶようなことも、弱っているときには不安をかきたてる材料になった。爆音の中でひとり、途方に暮れた。

 なんでこんなところに来てしまったんだろう。さみしい。家に帰って、慰めてもらいたい。逃げても解決しないのに、馬鹿みたいに、救いを求めて、勢いでここまで来てしまった。

ぬるま湯の中で考えるべきだ

 近くの日帰り温泉に入ることにした。
 ワックスがかけられ、ちょうどよく馴染んだ床と、マッサージ屋や軽食屋の気楽な雰囲気に心が和む。露天風呂は広く、地元の人と観光客で賑わい、マティスの水浴図のようだった。コンタクトレンズをせずに入浴していたので、目がとらえているはずの景色は土砂降りの日のフロントガラスのように、光と色のイメージとして再構成された。
 体がほぐれると、気持ちは上向きになった。裸の人々は誰も働いていない。純粋な生の営み。子どもたちをうんざりしながら落ち着かせる母親の気苦労や、若い旅行者たちの現実味のある雑談が、さみしさを忘れさせてくれた。ほぐれた体で、ゆっくり帰路につく。
 途中、コンビニで夜食やストッキングを調達。何か読むものがほしいので本のコーナーも物色する。心が弱いあなたはどう生きるべきか、という趣旨の本があった。普段生きていると、自分のように弱い人間などどこにもいない気がするが、こんなにのどかな港街にも、不安の芽を持ち込む人がいるということだ。日本が心配だ。コンビニで売っているこの類の本はやけに説教じみていたり、こうすべきというのが強すぎたりするので普段なら買わない。でも持ってきたアランの幸福論はあまりにも図星すぎて読み進めるのが辛い。となると部屋で読むものもない。逆に今はコンビニ陳列本くらいのわかりやすいアドバイスがいいのかもしれないと思い、買うことにする。

瀬戸内海に浮かぶ月

 真っ暗で静かな瀬戸内海。
 シュンシュンと海釣りをする人々。
 月は嘘みたいに感じが良く、黄色くまんまるに浮かんでいる。ホステルからもよく見える。RC造の古いビルの窓から入ってくる月光は、空間にえもいわれぬ静けさと柔らかさをもたらしている気がした。
 部屋に戻って気分良く、コンビニの焼き鳥と梅おかかのおにぎりをつまみ、眠くなったのでベッドに横たわる。ぼんやりする意識の中で、手帳に明日のスケジュールを書き出してみる。かわいい子には旅をさせよとはよく言うが、何も手につかなくなった人間のリハビリに、調べものとタイムスケジュールの組み立てはちょうどいい脳の体操になった。最近は、スケジュール好きな夫に任せていたものだから。
 2階のバーでパーティはまだ続いている。顔を出してみる元気はない。爆音も固いベッドもお構いなしに眠った。
 明日はいよいよ、直島へ行く。



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