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黙れない人々

 営業職の私はかなりの頻度で人に謝っている。すみません、すみませんと。おそらく、人間がほんとに出来ている人は、そう簡単に謝ったりしない。本当に自分に非があると、認めるに至らない限り、簡単に頭を下げてはいけない。そんなことはわかっている。本当は私だってそういう生き様を望んでいた。でもね、人間って複合的に複雑にいろんな流れにのまれながら組成を含んでいるから、「こうするんだ、こういう生き様を貫くんだ」と決めていても、断念するしかない、諦めに至ることは常だ。

 信念とかプライドなどという「観念」よりも実体験で得た「教訓」こそが見えていなかった視野を広げてくれる。そこに現れる道は当に我が征くべき道というやつだ。

 その道の上には、謝るも謝らないも低次元に見える、俯瞰視する自分がいる。持って生まれた業というやつが厄介なのは、視野を狭くすることなんだね。意固地に保とうとする「正義」によって。それはいざという時であったりする。人間はいざという時に自らの「信念」や「プライド」が保身へと誘惑する。どうにでも自己正当化なんて出来るんだ。言葉だけの世界では。

 きっと間違いない、いや絶対に間違いない、俺は正しい、でも自分は誰も傷付けたくはない、みたいな。こういう昔学校によくいた頭でっかちの自家製中毒型の優等生学級委員長。自己閉鎖中毒型優等生は自己満足に帰す。

 複雑怪奇なことをいうと、仕事以外で私は絶対に人に謝らない。いや、それは自分に非があるとわかっていることでも。100%過失が私にあっても謝らない。事実そういうことがあった。時に、人への暴力も謝っていない。謝らないし弁明もやらない。誤解は誤解のままに。悪人でけっこう。仲間など100人もいらんよ。1人でいい。1人いなくてもいい。黙れる人間だけが崇高。すべてにおいて黙る。私は黙っている。ずっと黙っている。まあね。

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