渇望、環境、激烈な発想と破滅的な行動

「これからMultiple Coffeeさんは小中規模設計構築のチームに入っていってもらうので」と言われたとき嬉しい気持ちになった。救われた感じがした。自分が勉強してきたから、自分がプロジェクトにコミットし続けてきたから、認められたんだと思ってホッとした。心がほわっと暖かくなった。毛布に包まれた気分だ。
同時に、自分ば肩書きで短期的には満足するタイプだなと思った。

Kick Ass2を観た。主人公とヒロインはヒーローを目指してる。一緒にチームアップをしようと主人公がヒロインを誘い、共に戦うがヒロインは親からヒーローを辞めて学校に行ってほしいと言われる。ヒロインは諦める。主人公は別のチームアップを探す中で、隠れ家を持つヒーロー達に出会う。全員見た目はダサいし隠れ家も汚いし、共感性羞恥で見てて死にそうになるが、彼らはその隠れ家と仲間に満足しているようだった。
こういうのは現実にも結構ある気がする。こういう、環境に恵まれている、少なくともその環境に満足していると、その環境から離れたときに個人ですること/できることやその環境以外の、例えば彼女や家族とすることに満足はしていなくても、その環境にいけば満足できるような状態。環境依存の幸福が、環境毎に強くアンバランスな状態。特にその環境はその環境内では満足だが、その環境から出たときに価値を感じにくくなるような、社会の基準とは凡そズレるような、幸せな時空間。
これは、仕事だけに幸福を求める状態と似ている。その一部の限られた時空間にのみ幸福を求め、そこから出ればまたつらくなる。自分はこの(満足していた環境とは別の)環境にいるとつらい、満足できない、自分の居場所はないI don’t belong to this env/group/society/etc.と感じ始める。そして満足のいく閉鎖的な環境に引かれ、悠久であれと願い、限られた時空間に閉じ篭もるようになる。
即時的な短期的な幸福は金が齎してくれる。短期的な幸福というのが大事だ。金で即時的に得たものは基本的に幸福の賞味期限は短い。
しかし金で得たもので長く幸福を齎すものもある。それは、その過程に情動的な体験をしたものだ。「ずっと欲しかった!」「あの人からもらった!」「ずっと行きたかった!」これらの情動には、長期的なもしくは達成可能性が低い状態での「あれがほしい!」「あの人からほしい!」「あそこに行きたい!」という渇望があったはずだ。
大事なのは渇望だ。身体的渇望。それが満たされたなら精神的渇望。情動的渇望。渇望は簡単に揺らぐ。満たされていなければ尚更。環境の力は膨大。では環境に依存すべきか?
そうではない。自分の渇望を叶えられる環境に行くべきであって、その環境に渇望すべきではないということだ。環境は存在自体が影響を発してる。だから環境がなくならない限り、もしくは自分がその環境から出ない限り、自身の渇望は揺らぎ続ける。環境が無くなることを望むことは不可能だ。なぜなら自分はその環境を渇望しているからだ。その環境に渇望していないのなら、その環境に自分はいないはずだ。
では今環境に渇望して依存しているなら?倒れたドミノを跳ね返す衝撃が必要だ。激烈で破滅的な非日常が必要だ。それは思考じゃない。発想だ。突飛な発想。四則演算から抜け出す常軌を逸する奇天烈な発想。そしてそれを現実にする激烈で破滅的な行動力。それだけが倒れ続けるドミノを跳ね返す衝撃だ。
激烈な発想、衝動的で破滅的な行動。インパクトだ!!!🔥🔥🔥

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