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AAEEの国際学生交流プログラムがベトナムで定着するまでの道のり Vol.1

2019年10月31日、ベトナムの政府公用車がタンソンニャット国際空港で当機構代表理事、関昭典を出迎えた。関は、ビンフック省の「友好組織連合公認アドバイザー」就任式に臨むために訪越したのである。外国人が行政府機関のアドバイザーとなるのは史上初のこと。現地では関の予想を超える盛り上がりを見せていた。
数百名の行政府要人が出席する中での就任式、続いて書記長との就任会見。その様子はテレビや新聞で大々的に報道された。
 大瀬はベトナムから次々と送られてくる映像を見て唖然とした。どう見ても「国賓待遇」としか思えない。テレビニュースの中の関は、普段気軽に話し合うときの関とは別人のようであった。ベトナム人の友達に映像を見せると「すごい人と一緒に活動しているんだね。」と皆口をあんぐりと開けて驚いた。
 大瀬は前年の8月に開催されたベトナムー日本学生交流プログラム(VJEP 2018)にアシスタントとして参加していた。常に関の脇にいたが、ベトナムにおける関の人脈に多さが不思議でならなかった。どこに行っても人々は関のことを知っていて、声をかけてくる。異国の地で、一体どうやってこれほどのネットワークを築いたのか。しかし、結局聞かず仕舞いでプログラムは終了した。
 就任式の数日後、関は学会発表のためにタイのチェンマイにいた。無事発表を終えた夜、数週間後に控えた当機構イベントの準備のために、関と大瀬は電話をした。電話会議の終わりかけ、大瀬は思い切って切り出した。
 「先生はどうやって、ベトナムであれほどのネットワークを構築したのですか。」
 
 「その質問に答えるのには少し時間がかかるけど、いいの?」電話越しの関は、昔を懐かしむように静かに語り始めた。
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 「9年前。僕にはベトナム人の知り合いは誰もいなかった。ゼロからのスタートだったんだよ。」

 関は、2011年はタイに、2012年はネパールに拠点を置き、東南アジアや南アジアの教育調査を行う傍ら、出版社と契約し10か国の教育事情に関する執筆活動も行なっていた。調査活動のためには現地の人々の助けが必要になるわけだが、学生交流プログラムの開催が頭の片隅にあった関は、現地の学生に協力を依頼した。どの国の学生も一生懸命支えてくれたが、ベトナムで手伝ってくれた学生はやや特別だった。

 ベトナムでの教育調査や取材は他国と比べて難航した。ベトナムは特に教育関係者の知り合いがいなかったため、まさに「出たとこ勝負」。事前にSNSで助けを約束してくれた、スワンという名の大学1年生だけが頼りであった。まさか、この一人の女子学生が関のその後の活動に大きな影響を与えることになるとは誰も知らない。

 ベトナム到着翌日から、調査に協力してくれる学校を探し始めた。しかし、どこも見事に門前払い。大学准教授と名乗る謎の日本人とベトナム学生のアポなし訪問。5校目に断られた頃だっただろうか。スワンは苛立った様子で関に訊ねた。
 「なぜ事前にアポを取らなかったのですか。ここは社会主義国ですよ。国の許可を得ていない外国人を受け入れてくれるはずがないではないですか。」

 しかし、関にも言い分はあった。事前に教育省やいくつかの大学、高校にメールを送ったのに梨のつぶて。「もうこれは現地に行って交渉するしかない!」と判断して、ベトナムに降り立ったのだ。
 10校ほど断られた頃から関は焦り始めた。記事の執筆もあるしこのままでは帰れない。傍らのスワンは深刻さを察し、必死に交渉を重ねてくれた(ちなみに彼女には一銭の謝礼も払っていない!)。その結果、やっとの思いで、二校の取材許可が得ることが出来た。
調査後に校長らにお礼を伝えると、二人の校長先生が同じことをおっしゃった。

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「ベトナムでは、このような調査のためには半年前から準備をしないといけません。私たちは政府の許可書がなければ受け入れることができないのです。あなたはスワンさんに感謝すべきです。彼女がしっかりとした学生だとわかったから、特別に電話で政府の許可を得たのです」と。(写真は、ベトナムで初めて関を受け入れてくれた学校の校長先生との交渉シーン。左がスワン、右が関)

調査を終えた翌朝、関はスワンに将来構想を伝えた。

「できればこの国でベトナム―日本学生交流プログラムを開催したい。」

「先生、それは無理ですよ。先生にはネットワークがなさすぎる・・・」
と言われると思いきや、彼女はただ者ではなかった。

「すぐにバスに乗りましょう。」

4時間バスに揺られて到着したのは、ホーチミン市に隣接するビンフック省。連れていかれた先には、サングラス姿の30歳くらいの男性、ユイさん。英語教師をしている彼の英語はとても流暢だった。初対面の年上外国人(ベトナムは日本以上に年功序列の国だ)にも臆することのない彼は、経歴がすごかった。大学院までオーストラリアで国費留学し、現地では”ベトナム学生大使”としてベトナム文化をオーストラリアに紹介し続けたという。
 ユイさんは、親切にもベトナムでのネットワークの築き方、プログラム開催までの手順を丁寧に説明してくれた。随分と国の事情に詳しい方だと思った。
「たぶん実現は難しいと思うが、もし政府の許可を得ることができれば、協力する。」
別れ際にこう言った彼が、一年半後に政治家に転身することになるとは予想だにしなかった。

 生活拠点であるタイに帰国するために空港に向かう途中、関はスワンに向けて
「やっぱり国際交流プログラムをやりたい」と伝えた。

すると、彼女は「本当にやるつもりですか」と半ば試すような、真剣な眼差しで関を見つめた。
「先生を手伝うことは私にとって大きな決断です。この国で先生のイメージする国際交流プログラムを実現するのは並大抵のことではありません。私は大学生活に様々な選択肢がある中でこの一番リスクの高いこの道を選ぼうとしています。だから途中であきらめることだけはしないでください。」

ベトナムのトップ大学の学生からこう迫られて関はたじろいだが、しばらく考えて決意した。
「わかりました。諦めません。」

それから1年9か月後、壮絶な準備期間を経て、初のベトナム―日本学生交流プログラムが実現する―。


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