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「悲しい時はシャワーの中で気付かれないように泣く」と元恋人は言った

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別れのときが近づいていた。私はその時にはただ夜ひとりで布団に入るとツーっと涙が落ちてくるようになっていたし、彼の言葉の一つ一つに毎日気持ちを揺らしていた。

外国人の恋人がいたことがある。

8ヶ月間の留学生活だった。私はニュージーランドの空気にすっかり染まってしまい、一方現地の彼は留学生との恋をしてそれを失うことを繰り返しすぎてもう傷つきたくないと言っていた。

だから私達は、離れたら終わると決まっていた。

当時は抱きしめられる距離だから一緒にいただけで、10時間も離れた国にいたら恋人同士ではいられない。何も言わない彼から私が悟ったのはそれくらいで、だから私はとても悲しくて仕方なかった。

彼は初めて私を女性として褒めてくれた他人であり、私が初めて身体を許した相手でもあった。

彼の好きを、私の好きが大きく越えていた。彼にとっては何人目かの恋人だった私。私にとって唯一だった彼。

私はもう十分に重い女だったので、彼の前では泣いたりワガママを言ったりしなかった。今となってはそれが余計にうまくいかなくさせる我慢だったと思うのだけれど、その時の私の恋愛経験じゃ、彼から嫌われないためにはそうするしかないと思っていた。

私が感情を吐き出さなくなって、一人で悲しみに耐えていたある夜、彼が突然口を開いた。寄り添って寝ている彼は、私を腕の中に包み込みながら、かすれる声で話してくれた。

「マユ。泣きたい時には、シャワーの中で泣くといいんだよ。水の中なら、涙も誰にも気づかれないからね。」

強がりな彼は、何度シャワーの中で涙を流しただろう。私の前では見せることのなかった涙を、シャワーが洗い流していたのだろうか。

たまらなくなって、彼を強く抱きしめた。私の悲しさばかりが大きいと思っていたけれど、彼の中にも私を失う悲しみがあった。私達はもう、幸せではなく悲しみを共有してつながってしまっていた。2週間、私達が会えなくなるまでのタイムリミットだった。


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昔の恋を思い起こすと、随分と無理をしていたなと思う。私が我慢していることで、相手にはもっと私が伝わらなくなって、お互いが苦しい手探りをしていた。

今の恋人も、きっとこれまで涙が出る恋愛もしてきたと思う。彼はそういうことは一切話したがらないけれど、彼が人一倍愛情深いぶん、失った時に傷ついただろうことは私にもわかる。

けれど、私達は今幸福感を共有できていると思う。あの時みたいに、苦しさ、悲しさ、寂しさ、痛みじゃない。危うい感情の綱渡りは、きっと前の恋があったからやめることができた。

あの夜のことを、久しぶりに思い出したコピー。みんな水の中でままならない思いを噛み締めながら、おとなになっていったのかもしれないな。




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忘れられない恋物語

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