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下着屋で誰かを思い出してしまうこと

新しい下着をしばらく買っていません。

そのしばらくが数ヶ月のことだから、それは買っていないとは言えないという方もいるかもしれません。でも、季節ごとの新作を楽しみにしてふらっとお店に立ち寄ってしまう私からすると、もう春という季節が過ぎようとしていることは「しばらく」と呼ぶのに十分でした。

新しい下着を買うとき、それはなにか心のときめきが起こるときな気がします。あのレースやリボンの溢れた明るい空間で、何かが自分のわくわくを呼び起こすようなときなんです。

修学旅行にぼろぼろの下着を持っていけない。昔はそんな理由で母に下着を買ってもらっていました。でも、高校生くらいからは自分の楽しみのために選んでいたような気がするんです。


自分のためのおしゃれ。

お気に入りの下着を身につけることで少しだけいい女になれる気がしている私は、それがまず第一に自分のためであると自信を持って言えます。

でも、最近下着を買わないのは、明らかにときめいてほしい相手を想定できなくなっているからだとも感じます。

少しでも可愛いと思ってほしい相手がいるとき、それを着た自分を魅力的にイメージできる下着は試着室のヒロインです。

なんとなく気分を変えたくて、彼に魅力的だと思われたくて、勇者が武器を選ぶように、私は下着を探すんです。


自分のためなんて本当は建前なのかな。

そんなに自分ひとりで強く輝いていられないのかもしれないな。

でも相手によく見られたいのだって、結局は自分のためなんだよな。


相手によく見られたい。そう思うことを恥ずかしいことだとどこかで思ってしまう自分がいます。いや、例えそう思っていたとしても、人に言うことが恥ずかしいと思っているのかもしれません。

なんとなく、下着を誰かのためにと言うことには抵抗があるんです。

クリスマスに、赤や黒の下着を嬉々として買える女の子たちがキラキラ見えて羨ましい。私はそういう下着の多くも、自分のためだと納得させないといけないように思ってしまいます。

そして、かわいく思ってほしいというエゴなんだと強く意識しすぎているかもしれません。そこにあるのは相手へのプレゼント精神ではなく、いつだって自分の装備なのだと知っているからかもしれません。


やっぱり、自分のためだったな。

純粋に相手に喜んでほしいわけじゃなかったな。

私は私のためにいつだって相棒を選んでいたんです。

でも、それでいいんだけれど。

そろそろ夏の新作が出るのでしょうか。いつも前を通る駅構内の店先の展示が変わっていたような気がします。

今年は暖色系が好みだな。次の季節は、どんな気分で迎えようかな。



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