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「どうして」と子供に言われて

舞台に立てば、もうそこは別世界。その場にいると言う事は作品の一部になるべきして歩かなければいけないし、立ち座りをしている。それが舞台の世界。

そんな大人の偏見はどうでもいい。子供は大人に一言いうのだ。

「どうしてあそこに座っているの?なんで寝転がってるの?まだ始まらないの?」

そうだ、これが俺の疑問だったのだ。子供はそれをいとも簡単に打ち壊す。しかし、これは子供だからじゃない。本当は誰もが分かっているのに、台本に舞台が始まる、ダンスが行われる、マッピングが始まる。なんでもいいが、その劇場に入る前から準備をしてきてしまっているのだ。

しかし、子供はそんな準備はしない。ただ、何かが始まると感じているだけだ。

大人が一人舞台にいれば、存在感を出されようがなんだろうが関係ない。人が一人舞台の上にいるってだけ。正直なものだ。

それでも少し通常ではない動きをすれば素直な眼で見てくれる。面白いとか変だとか思わない。ただ、何かが通常ではない動きを醸し出しているのだ。それが本能だろう。

舞台に立ってきて何十年と経過しようがなんだろうが、俺の疑問はそこにあったのだ。「どうして?なんで?」舞台にいるの?この動きの意味は何?となんで聞いてくるの?

裏表のない純粋な感情をフィルターなしにはもう見てくれないんだろうか。

ダンスをやり、芸術と「云われる」ことに関わってきて時間がどれぐらい経過しようが、俺はこの最初の疑問を追い詰めている。ダンサーになろうだとか、俺は芸術家んだとかなんでそんなことが言える?子供のこの疑問は面白い

しかもこれが反応も面白いのだ。子供用に作られた作品も大抵は子供には通用しない。それは疑問が持てないからだ。でも正直に感じた感想はこれだ。

俺自身が「どうして?」と自問自答する機会を与えてくれた。

そして少しでも通常ではない動きが始まれば少し見てくれる。感情を動きに入れれば、さらにショウが始まれば意味など考えずに見る。本当の目線を感じる

「どうして?」と子供に聞かれるのと大人に聞かれる違いは大きい。大人は自分の意見を準備して聞き、子供はただ聞こうとする。

少し長年の疑問の糸が少しだけ解けた気がした。


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