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僕は子どもの頃水泳教室に「行く」のが嫌だった

「行く」のだけ

僕は小学校の頃、水泳に通っていた。多分小学校1年生から5年生くらいまで。メダカ組は卒業してたと思う(伝わりますか?) バタフライは結局できなかった。

僕はスイミングスクールに行くのが嫌だった。毎週1日、平日の何曜だったか、その数日前から憂鬱な気持ちで、小学生特有のの風邪ひかんかなぁとかいう身を切る回避方法もしょっちゅう考えた。実際仮病で休んだこともある。

それでもなんやかんや、しっかり通った。

で、不思議なのは行ってしまえば別に大したことないのだ。厳密には親の車に乗って、スイミングスクールについて、ロッカールームに到着して塩素のにおいを鼻が捕まえるまで。湿った木の少し腐ったすのこを足の裏で感じて、同じクラスの友達が声を掛けてきたらもう嫌な気持ちは燃えかすみたいになって燻っている。

そこから、まぁ厳しい先生に叱られたり練習がキツかったりやっぱりしんどくて嫌な思いはするけれども、行く前のあの全てを投げ出しても行きたくないという感情とは種類の違うものだ。

練習が終わって、親が迎えにくるまで友達としょーもない遊びをして、家路に着く車中でうとうとしている頃にはもう自分は明日に生きている。

一歩という恐怖 未知という不安

僕にとってそういう一歩は遠い。時には死にたくなるほど遠い。それは社会人の今でも同じだ。朝の通勤が何より辛い。行ってしまえばなんとかなることもある。なんとかならないことの方が多いけど、会社にたどり着くのが一番怖い。

それは多分、未知だからだと思う。スイミングスクールも職場も、場所はもちろん未知ではないし、人ももちろん未知ではない。でも、そこで起こる出来事が僕にとっては未知だ。それも嫌な思いをするかもしれないという無知だ。怒られるかもしれない恥をかくかもしれない失敗するかもしれない幻滅させるかもしれない期待に応えられないかもしれない信用を無くすかもしれないエトセトラ。

関係あるかは分からないけれど、僕は未来のことを考えるのが苦手だ。いや、避ける。僕にとって未来は未知で、怖いもので、そこに踏み出すのは勇気がいる。

もちろん未知は夢や希望に溢れていることを知っている。だからそれを好きな人もいることは知っている。

これは未知、すなわち未来に対する考え方の二元論。


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