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情熱夫人

最近、とあるフードドライブに関わっている。フードドライブという言葉にはぼく自身馴染みがない。フードバンクならわかる。要するに、余った食品を必要とする人に提供する場所のことだ。企業などから大量の食品を譲り受け、それをストックしておく所をフードバンク、それをさらに譲り受けて末端の利用者がもらいに来れるように置いておくところをフードドライブというらしい。

そこにちょっと個性的な人がやってくるという。高齢の独居老人なのだが、後から来る人のことを考えず、一人では到底食べきれないぐらいの食材をがさーっと持っていってしまうのだという。彼女があらかた持って行った後で小さな子をたくさん連れた親が来た時、ほとんど渡せなかったこともあったらしい。

「そーゆーのはアリなんですか?」

と主催者のYさんに訊くと、

「ルールはなるべく作りたくないんです。一つルールを決めたら人の数だけどんどん増えていく気がするし、別に後の人のことなんか考えなくたっていい。食品を独占したいっていう”情熱”を持ってる人なんだから、ここで叶えられなければ他でやろうとするでしょう。だったら、それを叶えさせてあげればいい。いざという時、何もないっていう事態を避けたければ、こちら側である程度ストックしておけばいいわけで。みんなそんな真人間じゃなくていいですよ。私自身そんなちゃんとした人間じゃないし…」

その発想は面白いと思った。こういう活動をする人は世間一般では意識高い系という見方をされることが多いと思う。が、主催者のYさんはそういう型にハマった人ではなさそうだ。

日本の社会ではこの情熱夫人みたいな人は許容されない。和を乱す、他の人のことを考えない人として排除される。そこで「一人何点まで」とか「一人分を超えて持っていく場合は合理的な理由を説明しなければいけない」とかもっともらしいルールが作られることだろう。困っている人は情熱夫人だけではなく、特定の人だけを支援する活動ではないのだから、確かにそんなルールが生まれることは一見、理にかなっているように思える。

だけど、次のような経過報告を訊くと、ぼくは唸ってしまった。

情熱夫人は足繁く通ってくるのだが、多い時には同じ日で午前、午後二度来ることもあるという。それがわざわざ服装を変えて帽子を被ったりして変装してくるという。つまり、一人でたくさん持って行くことに対して恥じらいがあるのだ。もちろん、留守番の人はそれがいずれも情熱夫人だとわかっている。

夫人は、レンチンごはんと生の米が並んで置いてあるのを見て、「これは両方持っていっていいの?」と何度も訊いてから、がさっと両方持っていったのだが、その時にぼそっと「欲張りだね」とひとりごちたそうな。

また、眠眠打破という眠気覚ましのドリンク剤を指して、「これは何?」とスタッフ一人一人に訊いたという。そして、「元気になるやつよ。眠い時なんかに飲むやつ。」と言われて、「あたしもね、ここに来ると元気になるんだ」とやはりぼそっと呟いたのだという。

ぼくは、それを訊いて、夫人の情熱を許すことには意味があると思った。変装しながらも夫人はスタッフに何かと話しかけてきて、長々とこれまでの苦労の多い人生について語ることもあるのだという。

人が癒される時、なんでも言っていい、ワガママを聞いてもらえる、遠慮せず甘えられる、自分という存在が丸ごと受けとめてもらえる、幼児が母親に対して求め、また与えられるような無条件の自己肯定感って大切なものだと思う。そういうものがしかるべき時に与えられなかった人もいるだろう。情熱夫人の人生に何があったのか、ぼくはつぶさには知らない。でも、彼女の甘えには背景があるはずだ。甘えるな、というのは簡単だ。誰だって世間の中でわがままが許されない状況の中でヒィヒィ言いながら生きているだろうから。でもこういう人の甘えを許す時、わがままを受け入れる時、初めて自分たちのいびつさについても許し、認めることができるようになるのではないかと思う。他人に対する態度と自分自身に対する態度は分け隔てがないのが人間だ。

主催者のYさんが情熱夫人をそのまま受け入れられるのは、フードドライブの隣のスペースで不登校児の居場所を運営していることともつながっている。そこではパソコンがたくさんあってフォートナイトをやったり、みんな気ままに過ごしている。「人の自由を制限しない/させない」とホワイトボードに書いてある。

ぼくらは物心ついてからずっと社会の一員としていかに振る舞うべきかを身に沁みるほど教え込まれる。協調性を持つこと、集団生活のルールを守ることを。そして、個人の無軌道な自由を放棄することと引き換えに居場所を与えられる。だからそうしたルールを守れない人には居場所が基本的にない。メンバーとして歓迎されない。こういう人に居場所を用意する時、用意する側の内面にも豊かさが生まれる。誰だってそんなにまともな大人じゃない。本来は。子どもの部分も無軌道な部分も死ぬまで持ち合わせている。人の自由を保障する時、自分も自由になれる気がする。

さて、ここでこれからどんなドラマが起きるのだろう。ワクワクする。


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