サタン

昼下がりのサタン

とある夏の日の昼下がり、インターホンが鳴った。当時ぼくが住んでいた都内のマンションにその人はやってきた。その頃深夜の仕事をしていたので昼過ぎまで寝ているのが常だった。
寝ぼけていると、また、インターホンが鳴った。

「はい、どなた?」

「最近、世界各地で戦争とかテロとかよくありますよね?」

「・・・。」

開口一番こんなセリフもなかなか聞けない。まだドア開けてない段階でいきなりこれだもんな。宗教の勧誘以外にないだろ。

「どうしてだと思われますか?」

それでもドアを開けた。ほんの冷やかしのつもりで。
全身白か生成りで統一された格好の女性が二人立っていた。三十代後半ぐらいの主婦、数歩後ろに緊張した面持ちの中学生ぐらいのお嬢さんが俯いて立っている。顔立ちや服装がそっくりなので親子だと思った。キリスト教系新宗教の人たちだとすぐわかった。

「どうしてって?…起き抜けにいきなりそんなこと訊かれても(笑)」

「あら、ごめんなさい。お休みでした?それは申し訳ないです。」

今時ちょっと目立つぐらいの垢抜けないロングスカートに日傘。手には冊子と聖書。

「いえ、いいんです。どのみちそろそろ起きないといけない時間だから。」

「不規則なお仕事で大変ですね。」

「いやぁ、慣れてますから」

「そうですか。お体に気をつけてくださいね。ところで、信仰はお持ちですか?」

随分とアクロバティックな“ところで”だな。

「神も仏もいないとは思ってませんけど、特定の宗教には…。」

「やっぱり、そうなんですよねぇ…。」

憐れみのようなものを滲ませつつ彼女は続けた。

「特定の宗教の信者でなくても、なんとなく信仰を持っている方のほとんどがこの世は神が支配してると思ってるんですよね、恐ろしいことに。」

「え?…だって…」

あなたたちだってそうでしょう?と言おうとして、気づいてしまった(なぜか関西弁で)…違うんや、こいつら…。

「言っていいですか?」

目だけで「どうぞ」と促した。

「実は、その大前提が間違ってるんです。」

「・・・」

とっておきの福音をお伝えします!という風情で彼女は言った。

「世界は…サタンが支配してるんです。」

近所の家の江戸前風鈴が鳴った。
何も言えなかった。
娘が恐る恐るぼくを見て、目が合うとまた俯いた。

「聖書にもちゃんと書いてあります。」

すぐ目の前に自分と全く異なる世界を観ている人がいるというのが怖かった。

「でも…昨日はこのあたり、毎年恒例の阿波踊りがあって、全国から踊り子と見物客が何万人も来てすごく盛り上がったんですよ。みんな飲めや歌えの大騒ぎで本当に楽しそうでした。」

「まあ、所によってはそういうこともありますけど、平和な日本だって毎日80人ぐらい自殺しますし、紛争や戦争がある地域に目を向ければまさに地獄絵図じゃないですか。」

「それはそうだけど…もし、ぼくがサタンだったら『ああ楽しいな』とか『世の中まだまだ捨てたもんじゃないな』なんて人が思うような体験は絶対させないし、最初の7日で世界を焼き尽くしますよ。」

「…それだとあんまり苦しまないんです。ひどい苦しみの渦中にある人が『いっそ殺してくれ!』って言いますよね?そうすれば楽になれるから。でも、サタンってひと思いに滅ぼしてくれるほど優しくないんですよ…魔には魔の目的というのがありますから」

「…魔の目的?」

「それは話し出すと長くなりますから、今度教会ででも。」

とチラシを渡された。ごく近くの教団施設で行われる説教の告知だった。よろしければ、とサタンについて書かれた聖書の参照ページのメモを渡され、ネットでも読めるからと彼らの教団のHPも教えられた。

その日の晩、職場で仲のいい女子に早速話した。

「サタンが支配してるって言われた時はビビッたよ。あの人たちってそういう教えなんだね。全然知らなかった。」

「もっと普通のキリスト教かと思ってた。たまに話に付き合うと面白いよね。で…その時ね、こう言ったら面白かったのに」

彼女はぼくに一旦背を向けてから振り返った。鬼気迫る表情だった。

「『どうしておれがサタンだとわかった?』…って(笑)」

「…ははは!それ最高!次やってみるわ。」

彼女はなかなかシャレのきついところがあり、それがぼくらの最大の接点だった。

次の機会はほどなくやってきた。ちょうど一週間後にまた同じ二人が来た。

「聖書はお読み頂けましたか?」

ぼくはわざと黙って俯いていた。

「…ごめんなさい。またおやすみでした?今日は少し来る時間を遅らせたんですけど」

「…それはいい。それより…」

「…」

相手が心配になるぐらいの長い間を置いて、俯いたまま上目遣いに女を睨んだ。そして精一杯の凄みを利かせて言った。

「どうして…おれがサタンだとわかった?」

彼女は眉一つ動かさずにじっとぼくを凝視しつつ立ち尽くしていた。ぼくも目を逸らさず二人で睨み合っていた。後ろで娘がぼくを見て、母親の背中を見つめた。

どれぐらい互いに固まっていただろう。痺れを切らした娘が母親の手をとり、「今日はこれで失礼します」と聞き取れないぐらい小さな声で言って、去って行った。

ぼくは慣れない芝居に力みまくっていたのか、どっと疲れてしまった。それから出勤する夕方までまた寝た。

起きて身支度を済ませ、出かけようとドアノブに手をかけた時だった。

…開かない。

鍵は開いている。思いっきり体重をかけて押したら手応えはあるが、やはり開かない。ドアの前に重い荷物でも置いてあるのだろうか。けれど、宅急便だってそんな巨大な荷物を黙って置いて行ったりしないだろう。隣が引っ越しをする素ぶりなどなかったし。これは困った。遅刻してしまう。

キッチンの前にある小窓から出れば、上の階へ向かう通路へ出られるし、そこから玄関側へ回ることもできることに気づいた。

窓際の多肉植物などの小物をどかして流しに上がり、身を縮めてなんとか窓から通路へ飛び降りた。

外から玄関のドア側へ回ってみて唖然とした。

ドアと枠の間を目張りするように布テープでべったりと留められている。
ドアの縦横に十文字にテープが貼られている。それは十字架に見えなくもなかった。

・・・

背後でカタッと物音がした。

脇の下を冷や汗が滴った。
恐る恐る振り向いたが誰もいなかった。

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