見出し画像

【緊急記事】 『東大入試テロ』をどう読むか 〜”自由”の下で肥大化する自我〜

 

 2021年1月15日に起きた、東大共通テスト会場で起きた無差別殺傷事件は、犯人が名古屋在住の17歳高校生であるということで、日本中に衝撃が走った。

 この事件、入試会場が現場で、かつ受験に臨んでいた高校生2人が被害者であることから「受験テロ」という見出しをつけた記事もある。あるいは「個人テロ」という語を用いたメディアもあり、まずは

「テロ」

である、という認識が主流になってきた転換点であることを高く評価したい。

 これまで、こうした報道の多くは「無差別殺傷事件」「無差別放火事件」といった名称で呼ばれ、これらが「テロ」の一種であるという認識が薄かったが、いよいよ日本で「個人によるテロ」が一般的になったという「受け止める側の意識改革」が始まった、ということでもあろう。

 ほかに「拡大自殺」という用語も見られたが、自殺という語ではあくまでも内向きになってしまうので、外部に危害を加えるという意味では「テロ」の語が望ましいと考える。


 さて、ここのところ日本列島各地で、「連続的」に生じているこうしたテロ行為。記憶に新しいところでは「京都アニメーション放火事件」「列車内殺傷事件」「クリニック・ビル放火事件」などがすぐに列挙できる。

 ただし、そこでワタクシ解脱者武庫川も、すこし読み違えをしていたのだが、こうした事件の犯人像として 

「すべてを失った、何も入手していない、無敵の人」

を想定してしまっていたことを反省したい。

 それが証拠に

という記事を、つい1ヶ月前に書いている。「無敵のテロル」という言葉を用いて、無敵の人をイメージしているわけだ。

 それに対して、なぜ今回の事件が衝撃的かと言えば、犯人が「持てる側の人間」だからである。

 犯人の高校生は中部地方の「進学校に在籍する、めちゃくちゃ勉強ができる、東大医学部を目指した秀才」であった。彼は普通に考えれば「持たざる側の人間」ではなく、「持てる側」であり、

「全てを失って無敵状態な人物では全くない」

というところに大きな特徴がある。

 それどころか、そのまま何もしなければ、「東大に入れたか、医者になれたかどうかは別にしても、社会のそれなりのポジションを得て、リーダーとして活躍した」可能性のほうが、はるかに高い人物、ということになる。

 だとすれば「無敵の人がテロを起こす」という「無敵のテロルの概念」には、当てはまらないことになる。

 もし、無差別殺傷事件がここ数年の日本で起きていなかったとすれば、この事件は「勉強しかできないおぼっちゃんがイカレて起こした事件」として扱われていたに相違ないが、先程から挙げているように、近年の

「無差別殺傷事件群の延長線上に、東大受験テロがある」

と読み解けば、

「持てる者も、持たざる者も、どちらもテロを起こす」

という新たな事実が浮かび上がってくるのである。


==========


 では、なぜ「持てる側の人間がテロを起こす」のだろうか。まだ全容が解明されているわけではないが、今回の犯人は「勉強がうまくいかなかったから」を理由に挙げている。そして「人を殺して切腹しようと」考えたとも伝わる。

 実はこの発言を読んでも、「無敵の人」とはちょっと異なる面がある。

 それは、「人を殺して自分も死ぬ」は、これまでの無差別殺傷群と共通するが、その後が

「だから死刑になりたかった」「だから刑務所に入りたかった」

という犯人が多かったことと、違いがあるのだ。もっとも、無差別殺傷群の犯人のいくらかは、実際に死んでしまっているので、証言が取れない人物もいるが。

 今回の事件を受けて、作家の橘玲さんが、

というツイートをなさっていたが、これまでの大半の犯人は「死刑にしてくれ」とは言ったものの、今回の犯人については当てはまらないかもしれない。何しろ「切腹する」つもりがあったと言っているからだ。

(その意味では持てる側の者は、自分の死についても、その勇気が持てるらしい。持たざる側の人間は、自ら死ぬ勇気さえ持たないようだ)


 その意味では、この事件はかなり意義深い真実を含んでいる。仮に、「持たざる者」が「無敵」になってテロを起こすのであれば、

「下級国民を下支えする政策・支援策」

が解決策ということになる。そうできるかは別として、昔のように「一億総中流社会に戻す」ことができれば、無敵の人は減少するので、テロ事件は漸減してゆくだろうと推測できる。

 ところが、今回のように、「持てる側の人間がテロを起こす」となると、政策的にできることはゼロになる。

 たとえば一定のお金や地位を持っている人間が、「より一層お金や地位が欲しいのに、俺はそこまでではなく、前澤氏には届かない」と言ってテロを起こしたとしよう。あるいは「東大法学部を出たのに、就職がなかなか決まらない」と言ってテロを起こしたとしよう。「一橋大学を出たのに、わずかなライター仕事しかない」と言ってテロを起こしたとしよう。

 そんなもんは、政策的に下支えしようがないし、個人の運は解決できないので、どうしようもないのだ。つまり、どこまでも欲望が肥大する限り、テロは起き続けることになる。


 さらに、興味深いことに、今回犯人は、東大で試験を受ける生徒を狙っており、つまり、無差別ではあるものの「持てる者から奪う」つもりがあることになる。

 これまでの無差別殺傷では、特に弱そうな被害者が狙われることが多かったが、あるいはこれから同じことをする人間が現れるとすれば、「有名予備校を狙う」とか、「賢い学校を狙う」とか、自分よりも「上の立場、持てる立場のものを引きずり下ろす」狙いが生じる可能性もある。

(その意味では、池田小事件と比較した記事もあった)

 つまり、持てる側の犯行は一種の「キャンセルカルチャー(引きずり下ろす)」の側面も有していることになるわけだ。


==========


 だとすれば、こうした「肥大化したモンスター」を生み出したのは、より一層の発展と成功を是とする「自由主義、資本主義社会そのもの」ということになるだろう。

 人はより自由で、より

「自分が思い描いた理想像を実現できる権利がある」

と思い込んでしまうが、

「そうではない自分、そこまでではない自分とのギャップ」

が、モンスターを生み出すわけだ。

「客観的な”身の程”(自分の立ち位置)がわからなくなる」

世の中では、こうしたモンスターは次々に誕生し、町の中で火を吹くだろう。


 となれば、現在の自由主義・資本主義の体制では、こうした事件は無くならないことになる。

 誰でも自分の「立ち位置」を見失い、「自分はもっと得るはずだ」と勘違いすれば、似たような事件を起こすのだ。

 ただ、そこで上級国民と下級国民では、ちょっとだけ事件のやり方が異なるのが興味深い。

 上級国民は、「ターゲットをある程度定めて、引きずりおろしながら、最後は自決する」ことを狙う。

 下級国民は、「無差別と言いながら、自分より弱い立場の者を狙い、最後は他者によって死刑になる」ことを望む。

 まあ、どちらであっても「ろくでもない」ことは、人類 "平等" なのだが。


(了)




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?