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なぜ神を信仰しても救われないのか


 今回のお話は、前回から引き続いての「神様と世界のありよう」についてのものである。
 なので、前回のお話「この世界は神にとっての”蠱毒”である」というヤツをさらっと読んでおいていただきたい。


 基本的に神は「何もしてこない」というのが、ぶっちゃけこの宇宙における真理である。このことは、すでにニーチェが「神は死んだ」という名言によって端的に表しているのだが、生きていようが死んでいようが、どっちみち神は「何もしてこない」のだから、こちらサイドから見ればおなじことであろう。


 ところが、ニーチェの言う「神の死」はニヒリズム(虚無)と結びついており、どちらかと言うとニーチェは「グレて、そう言っている」と解釈することもできる。神はこちらに絡んでこないのだから、てやんでい!神なんて大っ嫌いだ!と言っているわけだ。

 神の行為、それを消極的な「放置」とみなすのであれば、解脱者ムコガワは、ニーチェとはちょっと考え方が異なってくる。

 どちらかというと、神は積極的に「放任」しているわけで、そこにあるのは虚無ではない。むしろ創造的な放任である。

 おいおい「解脱者」のくせに「虚無」を否定するだなんて、このおっさんは一体何を言ってるんだ、わけわかんないぞ!とお叱りを受けそうだが、もう少し丁寧に説明しておこう。


 ようするに、神は意地悪で放置しているわけでも、存在価値がないわけでもなく、物理法則というものを設定した上で、「後は自由にやっていいよ」と言っているのである。まあ、解脱者はそういう風に捉えるわけだ。

 予算と材料を潤沢に用意してくれている大学の実験室があって、偉い人が、何をやってもいいよ、どんな研究をしてもいいよ、自由だよ、と言ってくれているようなものである。

 しかし、そこでは、物理科学の法則に反するような実験も不可能だし、そもそもそんな研究は成立しない。なぜなら物理科学の法則の内部でしか、何か新しい成果は得られないからである。しかし、すべては自由だ、ということをイメージしてほしい。


 そんな実験室で好きにやっていいよと言われているのに、ニーチェ君は「大学は死んだ」とか「大学は虚無だ」とか言っているのである。おいおい、何をグレてるんだ、もっと研究を楽しもうぜ!とムコガワはニーチェを励ましたいくらいである。

 しかし、ニーチェ君が言うところも、わからなくもない。ニーチェ君はこう言うだろう。 「その結果、この大学の研究室では何が生み出された?人類は自由に好き勝手に科学技術を弄んだ結果、核兵器を生み出したじゃないか」と。

 まあ、ぶっちゃけ、そんな感じで核兵器は生まれるし、今後はもっとやばい生物兵器やら、DNAの改造やら、人造人間ニュートルズやらができてしまう可能性もあるだろう。

 しかし、それでも神は自由に放任させてくれているのである。それは真理だ。


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 しかし、よくよく考えてみると、核兵器や生物兵器や、人造人間ニュートルズを生み出してしまったとしても、それは神のせいではない。最初から最後まで人間がやっていることである。もし、物理科学を用いて「できちゃった」ものが危ないものや不完全なものであったとしても、それは「人間のワザが未熟だからであって、神はそもそも何も言っていないし、絡んでもいない」のである。

 だから、この世界の中で起きていることはすべて「人間がやっていることであり、人間がああでもないこうでもないと、頑張ったり失敗したり、また考え方を改めたりしている」というその繰り返しであると言える。そして、人類の歴史とは、まさにそういうものなのである。

 あれ?そこには最初から神はいない。神が人間にやらせたことなど、ひとつもないし、代わりにやってくれたことなど何もないのである。

(せいぜい、場を最初に提供してくれたくらいだ)


 だとすれば、今度はよくよく考えなくても「神がなぜ人類を救ってくれないか」についての答えはすっきりバッチリ簡単にわかるだろう。

 神を信仰しても救ってくれないのは、「この世界で起きていることは、全部人類や生命に責任があることだ」からである。

 ここで、僕たち私たちは、けっこうものすごいことに気づいてしまうだろう。

 前回の記事も思い出してほしいが、僕たち私たちは「神は良き存在で、世界や宇宙を良き状態にしたがっている」と思い込んでいたが、もしその前提が正しければ、もちろん「神は人類や生命を救いたがっている」ことになる。

 だから三段論法的ではあるが「神が良き存在で、神は良き世界を望んでいるのであれば、神に祈れば救われる」という解釈が成り立ったのである。

 これが、人類が神を信じていた時代のお話だ。


 ところが、近代を経て現代を迎え、ニーチェくんが言う通り、神は死んだわけで、そこには神はいないのである。これをニーチェくんは放置プレイと解釈し、解脱者ムコガワは放任主義を解釈した。

 神は、人類が失敗しつづけてもニコニコで、絶対に怒ったりしない器の大きな存在だ、ということになると、「神は別に良き存在でもないし、良き世界を望んでいないし、好きにやってみろと思っているし、神は絡んでこない」ということになるのである。

 ということは、前提が変われば、人間がやっていることは「真逆」になるのである。


 仮にあなたや私が神に祈って「良き世界が到来するように」と念じ続けたとしよう。もちろん、神はもともと絡んでこないのだが、それにしても神から見ても「いや、おまえがそうしろよ」ということなのだ。

 良き世界を作るのも、良き宇宙に育てるのも、良き社会を作るのも、それらは全部、君らの仕事だ、ということになる。

 ならば、それが未完成の状態で祈りを捧げている人間というのは、「自分の責務を果たさなかったり、努力をやめてしまった他力本願なヤツ」ということになってしまうだろう。

 祈りは、自分の責任からの逃亡である。

 

 ・・・うむ。これはマジでヤバい考え方であり、ものすごい大事なので、もう一回書く。

 祈りは、逃亡である。

 祈りは、放棄である。

 祈りは、背任である。


 なるほど!こう考えれば、「人類の祈りはなぜ聞き届けられないか」がよくわかるし、現実とつじつまが合うことがバッチリわかる。

 仮に、世界を暴力と死で脅しつけようとしているプーヤンという悪い王がいたとして、民衆は「どうか神様、プーヤンを排除してください」と祈る。

 しかし、神は黙って見ているのだ。そして内心思っている。

「プーヤンを排除したいと願うのであれば、君ら自身でそれをやりなさい」

と。

 だから、祈りは最後まで、聞き届けられないわけだ。なるほど、これは現代を生きる僕たち私たちにとって、かなり耳の痛い事実だ。

 そしてたぶん、これは真実真理であり、神が実在しているとしても、この考え方であれば、バッチリ矛盾なく「神が助けてくれない理由」が誰にとってもわかるだろう。


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 思い起こしてほしい。そもそも信仰や救いを求めることは、「民衆の側、人間の側からの一方通行な感情」である。

 その昔、聖子ちゃんはトイレにいかないと信じられていたり、ジュリーという神がいて、衆生はそのまわりで失神したりおしっこちびったりしていた。

 ちょっと前にはKGBだかBAKだかといったアイドルがいて、「推し」なんて呼ばれたりしながら一部の信者に猛烈に信仰されていたりもした。

 誰にでも「この作品、この作者、このアーチストに出会って救われた」という芸術や文化があるものだが、その感情は、かならずこっち側からの一方的な熱烈であって、あっち側からは絡んでこない。

 こっちにしっかり絡んでくれ、抱擁してくれるのは「純烈」くらいで、どんなアイドルでもあとはせいぜい握手してくれるくらいのものである。

(たとえ話である。基本的に崇拝対象はこっちには絡んでこないし、内心はキモっと思っているものだ)


 ということは、信仰や祈りは、たとえそれがどんなに「こっち側の救い」となっていたにせよ、本質的には「あっち側の知ったことではない」のが真理である。

 だから信仰は、結局は「こっち側が勝手に弱かったり、こっち側が勝手に強くなれたり、こっち側がそれによって変われたり」するだけの触媒に過ぎないわけだ。

 それよりも確実で手っとり早いのは、

「こっち側が最初から強くなり、こっち側が勝手に変革し、こっち側が生き生きと突き進む」

ことである。

 だから最初の話に戻るが、こっち側が勝手にやる分には、神は不要であり、なおかつそれは多いにやってよいのだ。


 だとすれば、「信仰」や「祈り」とは何か。それは結論から言えば、

「弱者の吐露」

であるに過ぎない。

 信仰を欲しがったり、祈りを必要とするのは、自分が弱き状態にあるからであって、ただ、その状態をウルトラマンのカラータイマーのようにピコンピコンと示しているだけのことなのである。

 なので、カラータイマーを青にすればそれは不要であり、そもそもカラータイマーが赤になったからといって、M87星雲から神が現れて助けてくれるわけではないということだ。

 最初から最後まで、こっちの行動次第であるということになるだろう。


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 そろそろまとめに入るが、人類が未解決の問題に取り組んでゆくには、前回のオチのように、やはり「協力しあうこと」が欠かせないだろう。

 その時、「祈りは逃亡である」ということは、次のようなたとえ話で理解できる。

 災害や事件が起きそうになっている現場があり、そこに複数の人間がいる。誰もが必死でなんとかしようと頑張っているが、人間には失敗もつきものだから、何人かが果敢にもアタックして命を落としはじめている。

 残った人間たちは、それでも必死になんとかしようとしている。その中に「祈っている」連中がいるのだ。ああ神様、どうか僕たち私たちを助けてください!と。(しかし、何も起きない)

 人間は弱い存在なので、祈りたくなる気持ちもわかる。しかし、死が訪れるまで祈り続けることには、価値はないだろう。戦っている人間は思わずこういうのだ。

「わかった!わかったから祈っていないで、ちょっとはこっちに来て手伝え!みんな死んでしまうだろうが!」

 さあ、あなたはどうする?

 祈りつづけるのか。立ち上がるのか。ということだ。

 戦争にせよ、疫病にせよ、災害にせよ、あるいは仕事にせよ、子育てにせよ、自己実現にせよ。全部これだ。

 苦しい時、悲しい時、祈りたくなることもあるだろう。しかし、次の瞬間には立ち上がらなくてはいけないのだ。協力しあって。

 それが、人類が生き延び、発展する、唯一の答えだ。

 祈っても解決しないのは、それが答えだからだったのだ!


(おしまい)


 


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