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シン・弱者論 外伝 〜君は弱者を叩き斬れるか?〜


 弱者についての考察を、これまで数回に渡って行ってきたのだが、今回は「外伝」と称して、読者諸君の心構えを問う「恐ろしい」回となっている。

 テーマは、「弱者を斬る」という、一見するととても非道な仕打ちについてである。

 そんな恐ろしい、おぞましいことをこれからやろうとしているのだから、こりゃあ、ただごとではないと思うことだろう。


 そこで、まずはこんな記事を読んでほしい。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/89076


 記事は、精神科医の斎藤さんという方が、『鬼滅の刃』という大ヒット作品を心理面から考察したものである。

 その序盤を読んでいただければ、これまでわたくし武庫川が、「弱者」についての考察で再三投げかけている、ある「問題」と密接に関係していることがわかると思う。

 ポイントはシンプルだ。

◆ 弱者というものは、暴力性を持つ。

◆ 支援者に加害行為を行う場合が多々ある。

◆ その原因は弱者がそうなってしまった経緯や環境にある。

◆ 支援者はその「加害」に耐えなくてはいけない。


という現実である。


 そのあたりの問題は、私のnoteでもすでに取り扱っていて、

という記事にまとめているのでご参照いただきたい。


 さて、ここからが面白い。いや、面白いと言えばたいへん失礼で不謹慎なのだが、実に面白いから仕方がないのだ。

 斎藤さんの記事にもあるとおり、「他者のトラウマに関わろうとするものには覚悟」が要求される。ところが、その覚悟には2通りの正反対のものがあるのだ。

 ひとつは、精神科医・斎藤環氏が述べるところの

「覚悟とは ”もしこの一線を越えてしまったら、たとえ被害者であろうと裁く” という覚悟のことだ。」

というものである。

つまり、元は弱者であったとしても、トラウマにより鬼となって暴力性を持ってしまったものは

「裁き、たたっ斬れ!」

ということである。


 もうひとつは、私の記事で引用した、カウンセラー・信田さよ子が述べるところの

「弱者にも問題があったり、もしかすると罪があるかもしれないが、弁護士のように100%の味方として支援する」

というものだ。こちらは

「裁くな、受け止めろ!」

と言っている。


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 人の心の領域を扱う専門家2人が、まったく逆のことを言っているのだが、実はこのことは「どちらが正解か」結論は出ていない。

 つい先日も心身喪失者が5人もの人を殺傷して無罪になった判例があったが、

「暴力性を発動した弱者をその原因ゆえに裁くのか、許すのか」

は、とても難解であり、裁判においても無罪になるものや有罪になるものが分かれる傾向にある。そして、どこがどうであれば無罪で、何がどうであれば有罪かと、はっきり線引きができないがゆえに、いつも国民的な議論を巻き起こすのである。


 さて、しかし我々の場合は、心身喪失者の量刑を裁く機会はめったにないだろうから、せいぜい

「一定の線引きを超えてきた弱者の暴力性」

にどう応対するか、ぐらいを体験することになる。

 それは時には、クレーマー顧客や、モンスター患者などの形で僕たち私たちに襲いかかってくる。彼らは弱者の姿をした鬼となって、襲いかかるのだ。

 「鬼滅の刃」においては、裁き、斬り倒し、許さないことが救済になる、という視点を描いている。これは納得のいくところだと思われる。

 ただ、フィクションなので鬼になったものが改心して元に戻るかどうかについては、ほとんど言及がないため、「罪を償い社会復帰の可能性がある犯罪者」をそのまま当てはめることはできないが、モンスタークレーマーくらいであれば「裁き、シャットアウトする」くらいはできるだろう。


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 さて、すこし話は変化してゆくが、斎藤さんの記事によれば、簡単に言えば、鬼となるものも、鬼殺隊のメンバーも全員、トラウマ的出自を抱えていて、結果的には

「みな、イカレている」

ことが明らかである。結果としてのどちらの(人か・鬼か)の正義を貫くかだけの問題であって、行動パターンに差異はあまりない。

 だからこそ煉獄さんは、「鬼にならないか」ともちかけられるのだろう。その差は、紙一重だからである。


 これはすなわち、

「精神や心を扱う医療者・支援者の側にも、闇がある。イカれている」

可能性を暗示する。

 私も、元教師という仕事柄、何人もの「児童生徒の心理的安定に従事する職員」と接してきたが、彼や彼女たちには多くの場合、一定の「信じるところ」があり、それを頑なに曲げずに信念として仕事に当たっていたように思う。

 養護教諭や、学校心理士など、多くの職種があるが、彼らは彼らのトラウマ(生き様)に従って、多様な、真逆の理念に支配されているのである。

 中には普通の教師にも、そうした「イカれている」理念に支配されている者もいて、「こどもたちを受け止めるには、けして叱ってはならない」と信じている者だっているくらいである。

(当然、表立ってはそうしないが、体罰と威嚇が教育的効果を発揮すると信じている者もいる)


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 そろそろ話をまとめてゆこう。正義とは何か、を突き詰めてゆけば、人はいずれどこかで

「そいつを斬る」

という覚悟をせざるを得ないだろう。偶然にもムコガワは解脱者なので、どちらの側の正義にも追従せず、「そこに正義なんてものはなく、どちらであっても突き詰めれば狂気だ」と思っているから、話半分で右から左へ受け流すようになってしまったが、それでもこの世に生きる大半の人は

「裁くか、裁かざるか。斬るか、斬らざるか」

を苦悩せざるを得ない。かならず、生きていればそういう場面に出くわすからだ。

 そして、仮に「受け止める」という選択をしたとしても、そこには覚悟がいる。「斬る」にしても覚悟がいる。そこで覚悟を持たなければ、あなたには鬼が襲いかかり、じわじわとあなたは蝕まれてゆくに違いないのである。

 それが「資本主義」という鬼なのか、「人間関係」という鬼なのか、「承認欲求」という鬼なのかは知らないが、十二の鬼と無惨なる結末が、あなたを狙っていることは、疑いないのである。


(おしまい)




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