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ニーチェで読む「宗教2世」論


 前回の記事では、「はちみつバター教」の教えと対比しながら、ニーチェの思想をざっくりと復習しましたが、今回の論考は、かなり「過激」です。

 ニーチェの考え方、つまり「神は死んだ」というかの有名な言葉をベースにしながら、「神が死んだあと、どうすればいいのか」「神が死んだのち、我々はどう生きるか」に着目してゆきます。

 宗教2世という存在は、時に1世の宗教を否定して、「神殺し」を行い、「神の死」を実感しながらその後の人生を生きてゆくわけですが、この「宗教2世のその後の人生」をニーチェの思考で紐解いてゆくと、かなりとんでもない話になってゆくのです。

 あるいは、今日のお話は、ある程度「治っている」宗教2世以外は、読まないほうがいいかもしれません。

 まだ自分の人生について苦悩や混乱が多い宗教2世は、回れ右をして読むことを控えておいたほうがいいのではないか?とさえ思います。

 それくらい「過激で、キレッキレ」の、ニーチェ式・宗教2世論が、はじまります。


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 ニーチェの考え方については、前回の記事を参照していただければ、かなりわかりやすく理解できると思いますが、今日は、次の部分に注目します。


”『超人』
 それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。
 自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。
 ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。”


  ニーチェの考え方を整理すると次のようになるでしょう。

■1 世界の成り立ちについて、あるいは「理性とはなにか」ということに注目していたこれまでの哲学をやめて、「リアルに今生きている人間を探求すること」に切り替えた。

■2 人間は理性的ではなく、キリスト教的弱者は、「恨み」というルサンチマンを抱いていて、それが苦悩の原因であると考えた。

■3 そのルサンチマンを越えて、「絶対的原理」=(真理を標榜する宗教など)を否定し、セカイにおいては真理っぽいものはバラバラ、つぎつぎに生まれると考えた。(価値観や宗教は、それぞれの解釈に過ぎないのでたくさんある)

という感じです。



 もう少し、説明を追加しましょう。


” 「神の死」とは、ニヒリズム的状況。彼岸を「真の世界」とする価値観(プラトニズムやキリスト教等)が崩壊したことで発生し、20世紀の哲学・神学へ衝撃を与えた。

 ニーチェによれば、「神の死」とは単なるキリスト教超克ではなく、虚無主義の宣言でもあった。つまり、強者は自己を善とし、弱者を「劣悪」とする。これに対して、弱者は虚構の世界解釈を行うのであり、その一例がキリスト教である。畜群的な弱者は、強者の価値観を転倒させ、支配的な強者を「邪悪」とし、自己正当化する。

 弱者の考えにおいては、いずれ来る世の中 ―― または来世 ―― において弱者が支配者となり、強者は貶められる。しかしこのような「神聖」な道徳は、実際は弱者の自己正当化に過ぎず、ニーチェによると「神聖」な価値観は、彼岸に「真理の世界」を虚構する(例えばキリスト教やプラトン主義等)。この虚構性についての洞察が、「神の死」を宣告することだった。

 「神の死」は20世紀の課題の先取りであり、これは「彼岸的真理」を否定することと結び付いている。「真理」や「世界の目的」といったものは、虚構や仮構に過ぎない。”


 わかりにくいので、このあたりも整理してゆきます。

■4 天国や楽園が真のセカイである、というキリスト教的価値観を否定した。

■5 虚構を信じて、そこに自分が救われると考えるのはただの弱者である。

■6 ところが弱者は、自己を正当化するので、いわゆる強者を神が転覆してくれることを望み、いつか自分たちが日の目を見る(永遠に生きる)と考える。

■7 神の言うところの律法や道徳的なものは、ただの弱者の自己正当化に過ぎない。

■8 ということは神は死んだ=神殺しは、「真理などと言うものは虚構である」と喝破するものである。


という感じです。



 ニーチェが言う「ルサンチマン」(恨み)とは、つまり、こういうことです。

 キリスト教というのは、基本的にはユダヤ人がローマの支配を受けて恨んでおり、その恨みを晴らしたいがために、現実から目を背け来世に希望を託した構造を持っており、価値観が歪んでいる、というのです。

 「貧しいものこそ幸い」「今つらい思いをすると来世に幸せがある」というのは、禁欲主義や、現世否定で、それをベースにした「道徳感覚」こそが歪んでいる、というわけです。

 なのでキリスト教的発想とは「現世において強者である誰か」に対して、ねたみや恨み、羨望を常に持っており、想像上の復讐で自分の哀れな心を満たすものであり、それが現実のおまえらだ!と言ったわけですね。

 そして、最終結論としては、ルサンチマン(恨み)を越えて、リアルな現実社会で強者になること・現実を肯定することが望ましい(超人)と主張したのです。


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 この話を宗教2世に当てはめてみると、構造そのものはシンプルです。


■ キリスト教を信じている宗教1世や、教団や組織は、弱者の集合体である。
■ 彼らは現実社会でどんづまりであるため、来世に希望を持っているが、それは虚構だ。
■ そこから脱して、宗教を離れ、「神は死んだ」(神殺し)をして、2世は離れなくてはならない。
■ 神や教団が言う「真理」もまやかしである。セカイの成り立ちなど、どうでもいいので、あなた自身の人生を見つめ直せ。生き方そのものに注目せよ。
■ ルサンチマン、恨みにとらわれるな。そこから乗り越えて、あなたを取り巻く現実を受け止めて生きてゆけ。それが超人だ。


ということですね。


 ところが、ここから話が怪しくなってきます。

 現在の宗教2世の感情、気持ちを取り巻く正直なところを申せば、それはすべて

「宗教1世に対するルサンチマン(恨み)、教団や組織に対するルサンチマン(怒り)、あるいは社会に対してのルサンチマン(妬み)」

に満ちています。

 宗教から離れたはずなのに、まだ「二重入れ子構造」のように、ルサンチマンのワナから逃れられていない、という恐ろしい現実が見えてくるわけです。

 これはとても、ヤバイ話になってきます。

 ニーチェが言うには、この「ルサンチマン」こそが不幸の元凶だと言うのに、宗教を逃れてもなお、まだ「ルサンチマン」に囚われているのが、宗教2世のリアル、だからです。ああ、なんという構造!!!


 ニーチェ的には、いち早く、「ルサンチマン」のワナから逃れることが大切だと説きます。なので「自分の人生に立ち返れ」と言うわけですね。

 こうして考えると、新世紀エヴァンゲリオンにおける、根底を流れるテーマ

「虚構に溺れず、現実に立ち返れ」

という話にも、通じてくるように思います。


 宗教2世の幸せとは、いかに「ルサンチマン」が罠であるかに気づくことから始まるのかもしれません。

 僕たち私たちは「宗教から離れた」時点で、第一のルサンチマンの罠からは逃れられたと、安心します。

 しかし、そこは二重構造になっていて、「親や教団を恨むこと、それを許した社会を恨むこと」におぼれてしまっては、再び第二のルサンチマンの罠に落ちることになる、という発見でした。

 あくまでもニーチェの説く最終目標は、「このセカイをある程度、この現実をある程度受け止めて、そこから自分のリアルな人生を再構築してゆくこと」でした。

 神殺しは、そのためにやるのであって、そうでなくては神殺しをする意味がないからです。

 宗教2世であった自分の人生には意味がないとか、価値が足りないと考えるのであれば、それはニーチェが「末人(ダメ人間)」と否定した生き方になってしまいます。

 そうではなく、「それでも自分の人生には意味があり、価値がある」と「ルサンチマン」(こじらせた劣等感や成功している社会人に対しての嫉妬心・何事もうまく行かないという自己嫌悪)を乗り越えてゆかねばならないわけです。

 まあ、言葉で言うのは簡単ですが、なかなかニーチェは厳しいことを言いますね。実際に超人を目指すのは、たいへんなことかもしれません。


 あなたの人生が、幸せなものとなりますように。


(おしまい)









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