信仰とはなにか
シン・エヴァンゲリオン劇場版が公開されて以来、「エヴァネタ」が続いていますが、なんとこの武庫川散歩名義でのnoteでは既に8本も書いているので、十二分にわたくしのコアが侵食されているような気もしますが、まあ、いいでしょう。
今回、エヴァがらみの論考としては、堂々の9本目に突入でございますが、なにか?
さて。エヴァと信仰についてです。タイトルとして「信仰とは何か」と掲げましたが、ここんととこのエヴァの盛り上がりをみて、これまでに増して
「信仰って、一体全体なんなんだろうな」
と思ってしまったので、そんなお話です。
話はすこし飛びますが、キリスト新聞という出版社があって、面白いことをずっとやっています。それは、
https://novel.daysneo.com/winner/kirishin2-winner.html
「聖書ラノベ新人賞」
なるものを立ち上げてみたり、
「イエスぱねえマジ神」
と講演してみたり、とにかく(キリスト教的には)可笑しなことばかりやっているようです。
このキリスト新聞の社長である松谷さんは、「元教員、元テレビマン」だそうで、わたしも元教員で、元放送局顧問なので、なにかしらどこかしら通じる所があるようなないような気もします。
教員を辞めたあとも、映像はしばらくやっていたので、某国民的映像賞に参加、受賞したこともありますが、あれから数年して企業のスポンサーが集まらずハイアマチュア向けの映画賞なんかもちょっと元気がない昨今ですね。残念。
さて、キリスト新聞さんが、「聖書やキリスト教にもっと親しんでもらおう」と精力的に活動なさっているのは端からみてるととても面白いのですが、かつ、それはそれでひとつのやり方ではあるなあ、と思うのですが、ちょっとだけとんでもない事実に気づいてしまったわけです。
それが、エヴァの話に関係する、というわけですね。
一体何に気付いたというのか。それは、キリスト新聞さんが「聖書に親しんでもらおう」と頑張っていることと対比して考えると、実に興味深い事が浮かんでくるのですね。
それは、
「エヴァファンの中で、キリスト教に入信した人は、どれくらいいるのだろう」
ということです。
新世紀エヴァンゲリオンの放送が開始された1995年から、今年の2021年まで26年もの間、「聖書にまつわる物語」が延々と繰り返されてきて、みんなに「親しまれて」きて、なおかつ、若い中二病たちが取り付かれたように「聖書の背後にあるものは何か?」「聖書のキーワードに何が隠されているのか」なんてことを考察し、迷い、考え抜いてきたわけですが、えーっとたぶん、
「誰一人、キリスト教に入信したわけではない」
のが答えだと思います。
ってことは、聖書にいくら親しもうが、キリスト教には魅力がないのですね。
その代わりに、多数の若者が「エヴァ教」に入信し、在家で修行に励んでしまいました。教えをこじらせたり、苦悩したり、いやはやそれでも「信じ」たりしながら26年が経って、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の完結によって阿鼻叫喚が沸き起こったわけです。
大多数の信者は、その結末によって無事救済され昇天したようですが、一部の信者はいろいろな満ち足りなさを感じたり、呪いが解けずに苦悩しているようです。
ネットには肯定派・否定派の声が爆裂して溢れています。それはもう、すごい数!
こうした事実を見ると、
「聖書に親しんだり、そのワードや中身を知ったからといって、信仰が生まれるわけではない」
ということがわかります。しかし、キリスト教信者は増えないのに「エヴァ教」信者は増えたわけですから(実際にグッズにお布施をたんまり払った人だっているわけで)、
「エヴァには何がしかの救い、もしくは信仰が生まれる対象があった」
と考えることができるのです。
まあ、最終譚の結末が「昇天し、召される救い」となったかどうかは、個人の感想にもよるのでしょうが、結末そのものはともかく、エヴァに信仰が生じたことは事実だと考えて差し支えないでしょう。
とすれば、旧来のキリスト教には「救い」がなくエヴァには「救い」があったということになります。
その違いを解き明かしたい!と思いますよね?
(え?思わない?)
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そこで最初の設問に戻るわけですよ。
「信仰とは何か、救いとは何か」
という天使のテーゼに挑むのです。
エヴァに若者たちがハマり、熱狂したのは「自分たちの境遇や、自分たちの感性に寄り添っている作品だ」と感じたことに尽きると思います。つまり、
「自分たちを理解してくれ、自分たちに寄り添ってくれ、また代弁してくれるのがエヴァである」
ということでしょう。
だから、それを提供してくれるエヴァに対して、「信じる、ハマる、ついてゆく」という気持ちが生じたと考えることができます。
「大人は身勝手であり、こどもたちは叫び出したい衝動や、あるいは互いに近寄ることに躊躇する怖さや弱さやトゲトゲしさがある」
ということを、共感的に描いたからこそ、エヴァは信仰対象になったのでしょう。
まあ、これはキリスト教の根幹であるイエスが、弱者に寄り添い、理解し、代弁者であったことと非常に似ています。エヴァは現代のイエスでもあるのかもしれません。
問題はそこからで、最終譚においてエヴァではそんな弱き・矛盾を抱えた子羊ちゃんたちに対して、
「成長し、大人になって、周囲と協調(コミュニケーション)するのが救いだよ」
と説きました。ここがイエスの教えとは全然異なる部分です。
この教えに納得し、救われる”べき”なのか、それともあくまでもそんな俗世の「大人の回答」に納得せず抗う”べき”なのかは、わかりません。
ここの部分がエヴァファンの感想を二分させる論争の「コア」になるとは思いますが結論は出ません。
ただ「信仰がどのように生まれ、人は何に救いを感じるのか」については、ある程度見えてきたようにも思えます。
本家のキリスト教のほうは、「オチ」がまだ来ていませんので、最終的に人類が救われるのかどうかは「まだ現時点ではわからない」ので、これを公平に論じることはできないと思います。
現段階では「信仰が生まれる瞬間、そしてそれが育つ様子」までは、両者確認できた、ということでしょう。
キリスト者とは一体何か?を究極的に表現するなら「イエスの復活を信じるかどうか」に集約できるとされていますが、それを信じる者はキリスト教徒であり、そこで定義がはっきりするというわけですね。
となれば「エヴァ教信者」とは、これまでは「エヴァの完結を信じることができるかどうか」だったわけですが、完結してしまったので、ちょっとだけ定義が変更になったかもしれません。
それは、たぶん、
「シンジくんと自分の生き方を肯定できるかどうか」
あたりにあるのではないかと思います。
なんだかんだいろいろ艱難があったけど、よかったね、と思える立場は、正当なエヴァ教信者であり、今回の完結で補完され、召されたと言えます。
しかし、「あんなもん認めねーぞ。シンジと庵野だけ幸せになりやがってこんにゃろー!」と不満足だけが残った人は、補完されず召されませんでした。
これはもう
「グノーシス・エヴァ」
のはじまりです(笑)
”グノーシス主義には様々なバリエーションがあるものの、一般的に認められるのは、「反宇宙的二元論」と呼ばれる世界観である。 反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。”
(Wikipediaより)
いやはや、ちょっとおふざけが過ぎましたが、今回のお話を通じて
「信仰を得るとはどういうことか」
が少しわかったような気がします。
信仰とは
「そこに自分がいる」「それは自分のことだ」
と感じられるような場を示すようです。
それは、言い換えれば
「自分がセカイとつながっている」
という感覚でもあるでしょう。これが与えられれば、人は信じます。
(オウム真理教において、個人の体験がセカイとつながっていると誤認させることで信者を獲得したのも同じでしょう。それは時には合成LSDを用いてでありましたが)
これからキリスト教が信者をもっと獲得したいのなら、ここにポイントが隠されているように思えますね。
教会ではなく、神やイエスとつながることができるかどうか、が試されているのかもしれません。
なーんちゃって。
(おしまい)
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