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掌篇小説『晩夏』(827字)

いつもは干からびた夏の河が、今にも溢れそうに、煮えるように波だつ。

灰色のなか融けてしまいそうに、翠(すい)はいた。雨に濡れ重くなった着物は投げ槍にはだけ、尻端折りで顕となった脚は、見たことがないほどに長く。痩せた捨て猫の風情でいて、水の氾濫さえ操る風な意思を、緑青がかった眼に宿らす。

俺はつかまえる。己の内にあった「男の分」「定められし径」が、抗う術なく地盤より儚く崩れ去る音を聴きながら、その腕を。女にはない骨の張りと、反して存外なほどの柔和さをなぞり、噛みつき。融けるのは俺の方か。

祝言を終えたばかりの妻を、妻より得た地位を棄て、逃げる。

紅き秋、銀の冬、芽吹く春、そしてまた、滾る夏を、翠とめぐり、追手をかわし逃げつづけた。

何を喰らい生きていたのか。翠の、何処までなぞれど終りなき躯、蓮より生まれた精霊の如く瑞々しい儘の色と芳香に溺れ貪ったほか、何ら記憶がない。

やがて、天に舞うようだった翠が、病に伏した。晩夏、あの日のような、雨。

「奥方が、私に呪いをかけたのです」
悟りきった風に唇は力なく笑む。俺は医者より盗んだ薬を唇でそそぎこむ。今なお何処か、遊戯の如くあまく。冷えゆく身を裸で抱き。「呪うなら俺を蝕めば良いものを」と泪を胸におとし。
「貴男と奥方のあいだに、子を儲けてはならない。それは遠き未来に厄をおよぼす端緒となる……私は喰いとめる為、この時世に降りたった。二人をひととせ離せば、私の役割は終りだった。……しかし、私は未来へ還るのを拒んだ」
「……何故だ」
「私は此処で、貴男のもとで、貴男に憎まれ果てる。それを択んだまで」

雨漏りの酷い襤褸小屋、蝋燭ひとつのなかにあっても、一層痩せた顔より剥きだす緑青の眼はやはり迷いを見せず。
その光も、屋根をうつ雨の音に拍子をあわせゆっくり、閉じられる。

夢か現か、俺はふたたび故郷の河原に横たわる。そばに翠はいない。やまぬ雨。灰色に染まった俺の身は、じきに泥となり、荒れ狂う河へ呑まれゆく。望みどおりに。





©2022TSURUOMUKAWA

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