見出し画像

掌篇小説『野良坊主と戌』

画像1

犬が死んだ。尊が成人する前日。

白の仔犬が居ついたのは尊が八歳の時。以後も躯はちいさな儘だった。だのに何故、無駄にのっぽとなった己よりさきに逝くのか不思議に思い、涙を溢す。
寺の住職の父は
「何を泣く、又何処かで会うやろ」
と暢気に言った。母も
「せや」
と亡骸を庭に埋めた。父は経を数行よんだ。

父と母は駈け落ちし、僻村の廃屋だった寺に住みつき。尊はそこで産まれた。遺されたぼろぼろの経本と袈裟で坊主の真似事を父がしはじめると、村人達も暢気なもので、ひとつきりの寺を何処の誰とて興すのを有難がった。

金が貯まると父母は、只でさえ雑な仏事や尊も放り町へ遊興に出てしまう。尊は九歳より贋坊主の又贋坊主をさせられた。酒も色もはやく覚えた。

村で尊を叱るのは、犬だけだった。酩酊し朝に帰ろうと誰も戒めぬが、犬は門で白く待ち構え、鋭い黒眼を更につりあげ雄々しく吼えたし、あやうい逢引をせんとすれば察し、膝のうえ、赤子ほどの躯でのしかかり阻んだ。
贋坊主となり法要などゆく時はついてきた。経を粗くよむ隣、純白の犬は尊より高雅に坐っていた。

成人した尊は、穴だらけの経を父よりは丁寧に覚え、着物を誂え笠を被り杖をもち旅にでた。町へはおりず西へ東へ山を巡り、弔いも儘ならぬ鄙びた村々で父よりは真摯に務め、食物を貰い、時に酒と色に溺れ、生きた。

十五の四季が廻った頃、山腹の茶屋で、皺を刻んだ母と再会した。「犬に似た子、町で見たわ」と牡丹餅を頬ばりつつ言った。父は一緒でなかったが、消息は聞かず終い。

町へおりる勇気はもてず又幾年過ぎ。
「化物が出よる」
と、妖怪成敗を乞われた。法力などある筈なく困惑しつつ、深更深山の、蟻地獄の如く凹んだ底にある池へ。水面は静謐で、平穏に思われたが。突風がふき松明が消えた。木々は星さえ遮り闇とする。尊は指をふるわせ筒の酒を呑む。

白くこまかな灯りがぽつぽつ顕れ、やがて池のぐるりを無数に満す。顔を寄せ視るとそれは、群生した茸だった。水の音にふりかえると、寺に朽ちていた菩薩像を甦らせたが如くかぼそい少年が、一糸纏わぬ白い躯を光らせ、水辺に立っていた。眼が尊を鋭くとらえる。
「嗚呼、おまえ」
翳りなき黒曜石は、腑甲斐ない尊を叱る犬に相違なかった。
<……変らず、野良坊主やの、尊>
少年の言葉は耳でなく、尊の髄に流れる。歩まずふわり、尊の隣に坐った。法要に添った時の如く高雅に、仄かに艶かしく。真白の髪から流麗な背を撫でると、笑みはせぬが和らぎ。そして尊の翠色の袈裟に、やはり赤子ほどの重さである躯をおしつけてきた。
<……光は今宵が最期、儂も消える。又儂を探せ>
ほそくもやわらかな身をもちあげ、尊の荒れた頬にゆたかな睫と形よいつめたい鼻をよせた。<努々、呑まれるな>とも囁き。

視界を覆った少年の白は、冬の黎明となった。水一滴ない砂地に尊は独りいた。袈裟と掌に光の粒が顕れ消えた。

立ちあがり笠を被り、歩みだす。



©️2022TSURUOMUKAWA

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?