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成長の中に

ふと私たちは、いつも成長の中にいると思うときがある。

誰かをののしる、誰かから奪う、そして誰かを恨む。
これらの行為はきっと成長の中にいるからこそのものだ。

最近、ご神体に鏡が飾られていることについて考えていた。
私たちが手を合わせているのがどうして鏡なのかについて考えていた。

鏡には何がうつるのかな。私たちは何に祈っているんだろうか。
それはきっと自分自身だ。私たちは、私たち自身に祈っているんだ。

きっと神様は自分自身の中にある。それを昔の人は伝えようとしているんだと思う。ストレートな言葉では伝わらないものは、寓話によって、おとぎ話によって伝えられたりする。

どうして伝わらないのか?みんなの見えてるものが違うからだ。
みんな見えてるものが違う。けれど見ているものは同じだ。
みんな同じものを違う場所から見てる。それは言葉も同じ。みんな違う言葉で伝える、けれどみんな同じことを言っている。

私たちは、自分自身に祈ってる。自分自身が神なら、世界は私がつくっていることになる。
誰かをののしること、誰かから奪うこと、そして誰かを恨むこと。それはすべて自分にしていることなのかもしれない。
誰かをののしることは自分をののしることになるのかもしれない。
誰かから奪っても、それは誰の物にもならないということを知るかもしれない。
誰かを恨んでも、その人自身が幸せであることはできるのか。

私たちは痛みを知る、そして成長する。痛みが必要だからと言って、痛みを教えてあげる必要はない。痛みはその人にしか感じ得ない。痛みは痛みであって、苦しみではないかもしれない。もしかしたら喜びだと感じる人もいるのかもしれない。

何をしても、何をしなくても、私たちは成長している、今この瞬間に。
だから成長しようとする必要はない。そしてそれによって成長する。

全ての瞬間が成長の中にある。



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