自分の事を蔑むことは、誰のためにもなりません。誰かに何かを言われて落ち込んで自分を責めても、誰のためにもなりません。まず、自分を責めても自分のためにはなりません。何かを言ったその相手のためにはもちろんなりません。じゃあ、いったい何のために自分を責めるのでしょうか。
頑張る必要も、努力する必要も、行動する必要もない。ただ、自分になればいい。ただ、自分であればいい。私たちが自分であるとき、そこにはなんの言葉も生まれない。だから、何もしなくていい。ただ、自然であればいい
会話には前提がある。しかしその前提は大体のところ示さない。 大事なのは、意識的な前提か無意識的な前提かどうか。 プライベートな場面で、特に根拠のない話(いわゆるそう思う話)について誰かに根本的な前提に関する事を問われると、少し息詰まる感覚に陥る。それは問わない約束だと思う。だがそれは、あくまでもこちらの前提への解釈である。だからどうしたらいいのかわからない。それを誰かを責めて悪者にするための材料として使うことは個人としては好ましくない。結論、関わらないのが吉である。 会話の前
もう、疑いようのないことがある。 それはもう、疑いようがない。 言葉も及ばないその領域を私たちは知っている。 当の昔から知っている。ただ知っている。 知っていることが当たり前すぎて、気づかない。 知っているからこそ、知っていることに気づかない。 何もかも許されている。 許されているとは、許すという言葉の受動態ではない。 許されているとは、そうだからそうだということだ。 許されないという言葉が及ばないということだ。 そのままでいいとは、そのままでいいのではない。 そのままで
言葉が、事実をトレースしているだけの道具に思えてきたとき、言葉の意味があまり理解できなくなってしまった。 本当によくわからなくなってきた。 けどここで皮肉にも面白いのが、「本当によくわからなくなってきた」っていう文章も言葉なんだってこと(笑) だからもうさ、なにも考える必要がなくなってきたよ(笑) だって言葉はただの道具なんだもん。言葉は全てじゃないんだもん。 人の名前も、水も、光も、速さも、方向も、空も、全部言葉なんだよ。 名前はその人自身ではないし、水も水それ自体じゃな
ふと私たちは、いつも成長の中にいると思うときがある。 誰かをののしる、誰かから奪う、そして誰かを恨む。 これらの行為はきっと成長の中にいるからこそのものだ。 最近、ご神体に鏡が飾られていることについて考えていた。 私たちが手を合わせているのがどうして鏡なのかについて考えていた。 鏡には何がうつるのかな。私たちは何に祈っているんだろうか。 それはきっと自分自身だ。私たちは、私たち自身に祈っているんだ。 きっと神様は自分自身の中にある。それを昔の人は伝えようとしているんだ
俺が今までやっていたことを例えるなら、学校の先生に怒られているときに、先生の頭をぶん殴ったらどうなるかみたいなことだ。自分を代償に、その結果を楽しんでいた。けどもう飽きた。俺にとってそれは自分を大切にしないことだって思ったし、流れに沿ってないって思ったんだ。だからもう終わり。
努力したから手に入るんじゃなくて、 手に入った背景の行動が客観的にみて努力と定義されるだけ。
俺は毎日同じ生活をすることが得意ではない。 例えば、同じ時間に帰ってきて、それからお風呂に入ってご飯を食べて寝る。この一連の動作をなぜか繰り返せない。 だから少し分析してみた。 結論から言うと、俺は今に集中することが得意ではないということだ。 "今"というと少し難しいが、いうなればこの瞬間のことである。 俺は過去や未来に思考が飛んでしまい、この瞬間への注意が散漫になる。そして俺は自分の思考を楽しんでいる。 そうだ。俺は過去や未来を思考することを楽しんでいる。これはゲームみた
やっと俺の人生を歩めるんだ。この時を待っていた。 これからはすべてが俺の選択。俺だけの世界を作ることができる。 一切が俺。すべてが俺。俺が世界を創っていくんだ。 全ての選択をする責任を負える。 どこに行くにも、何をするにも、俺の意のまま、思いのまま。 ありがとう神様。俺はこの時を待っていた。 俺は俺の人生を歩くから。俺の道を行くから。 新しい世界、はじめまして。
成長は快だとこの頃思う。 成長って気持ちが良いものだと思う。 人は自分の行動をコントロールできない。無意識に動かされている。 ならその無意識に刻まれたものによって行動が決まる。 自分を大切にできない人は、無意識に自分を大切にできない行動をする。 人は自分の無意識下にある葛藤を無意識に解消しようとする。 コンプレックスがある人は、無意識にそれを恥ずかしいと思う。そしてそれを口に出し、態度に出し、誰かに見てもらう。 「私をみて!私はこんなコンプレックスを抱えているの!」 大
自分がやりたいからする。これに尽きる。 このメンタルなら、何の後悔もない。あるはずがない。 私たちに社会が求めているものは、きっと求められるものじゃない。 自然と成長していくにつれてなっていくものだと感じる。 そしてそれらは総じて快だ。 自立ほど心地よいものはない。 主体的であることほど快であるものはない。 協力すれば、大きなエネルギーをだせる。 すべてのものは快につながる。 そうでなければ、それは道理じゃない。 俺は人生のすべてを快で埋め尽くす。それが今の俺の生きる意
俺はこんなに楽でいいんだよ。 俺はこんなに楽でいいんだよ。 俺は幸せであっていいし、楽しくしていい。 楽しくしたくない人は放っておこう。それが彼らの望みだから。彼らの望みを叶えてあげよう。だから放っておくこと。 全ての自分の感情を認めよう。もう自分の感情を何一つ否定する必要はない。もともと俺は幸せであっていい。最初から俺は愛されている。そのことを俺は知っている。 厳しくありたい人は厳しく在っていい。それはその人の自由だ。 俺は俺自身を選ぶ。俺自身を選ぶことは俺の責任だ。
先日、韓国に旅行で行ってきた。観光地のカフェで飲み物を買ってカウンターで飲んでいた。私は飲み物を盛大にこぼした。そのときヨーロッパ系の観光客の一人がペーパーナプキンを持ってきてくれた。とても嬉しかった。私はThank youって言った。私は大切にされる存在なんだと確信した。
ここ最近で、何度か他人に怒られたり、嫌なことを言われたりすることがあった。けれど、なぜかわからないが、すべてがブーメランな気がしていた。 自分のことを舐めてるの?って怒りながら聞いてくる人がいた。 その理由を聞いたら、わからないって言ってて、俺は「それは俺のことをなめてる証拠ではないか?」と思ったし、その人は自分のことを舐めているんだとも思った。 「真面目な顔ですね」と言ってくる人がいた。俺はその人が自分自身を真面目な顔だと思ってるんじゃないのかと思った。なぜかはわからな
感受性が強すぎて、外の刺激に耐えられなかった俺は、小さいころに感情を抑圧した気がする。 そして今、感受性の客観的な把握ができるようになり、自分の感情を少しずつ認められるようになった。 こうなるまでには、とてつもない時間を観察の時間にあてた。 正直、感情の実態は言語化しにくい。だけれども、確かに俺は感じている。 おそらく感情と思考は別物だ。 思考は感情をのせる船のようなもので、感情が伴わない思考は、全くと言っていいほど無機質であるように感じる。 だが一方で、感情が乗った思考は