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名誉なき野郎ども

こんにちは。今回は2009年公開のイングロリアス・バスターズ(監督:クエンティン・タランティーノ、主演:ブラッド・ピット)です。ランダ大佐役のクリストフ・ヴァルツの演技は、素晴らしく胸糞でとても良かったです。

ところで、本作は第二次大戦が舞台の映画ですが、これまで自分が観てきた戦争映画とはなにか違うなと思わされました。史実と異なるお伽話的なストーリーのせいかと思いましたが、どうも違うようです。この違和感の原因を探っていきたいと思います。

①フランス語の活躍

まず、これまで観てきたものに比べて、フランス語の主張が強いという点です。よくある戦争映画、特に第二次世界大戦が舞台のものは英語がメインで、時々ドイツ語、稀にフランス語が話されるということが多い気がします。

しかし、本作は最初からフランス語を中心に会話をするシーンがあります。これは、占領下のフランスが舞台なのだからよく考えれば当然のことですよね。そもそも、第二次世界大戦における連合国と枢軸国の戦いは、もちろん、アフリカなどにも戦火は広がっていましたが、ヨーロッパが中心だったはずです。(世界史民ではないのでこの辺はよくわかりませんが。)

そうである以上、これまでの第二次大戦もののハリウッド映画のように、占領下のフランスなどヨーロッパの特に大陸側が舞台になっているのにもかかわらず、英語とドイツ語しか話されていないというのはおかしいのではないでしょうか。スペイン語があり、フランス語があり、他にも様々な言語が存在しているはずです。

ここに、戦勝国側が描きたかった《英語=連合国=平和のために戦う正義の味方》、《ドイツ語=枢軸国=平和を乱す悪の軍団》、といった構造があると考えられます。その点において、フランス語という第三の言語を劇中で使用することにより、この構造を壊すといった考えがタランティーノにはあったのではないかと考えられます。

②正義の味方?

次に、バスターズメンバーの振舞いです。バスターズの構成員は隊長のレイン中尉を除きほぼ全員がユダヤ系でした。(1人だけドイツ人がいましたが。)そのため、彼らが捕らえたドイツ兵たちは情報を言わなければ木製バットでボコボコに撲殺され、情報を言ったとしてもナイフで額にハーケンクロイツを彫られていました。

戦争映画において人が死ぬのは当然です。しかし、連合国側の兵士、とりわけ主人公に近い人物たちがここまで残虐な行為をするシーンというのは珍しく思います。

上述したように、これまでは《連合=正義の味方》だったはずなので、そのイメージを悪くさせるような振舞いは描かれていないのでしょう。それでは、なぜタランティーノはレイン達にこのような事をさせたのでしょう。

これは想像の域を出ませんが、おそらくタランティーノは、第二次世界大戦または戦争というものに正義は存在しない、という考えを持っているのではないでしょうか。ハリウッド映画において、第二次世界大戦を扱うときにはどうしても「戦争の英雄たち」に焦点を当て、彼らを美化しがちです。しかし、現実の戦争では一方にとって英雄的な活躍をした人物は、もう一方にとっては悪魔のような存在であるということになるでしょう。それは、劇中で宣伝相ゲッベルスによって制作された、ドイツ人狙撃手が主人公のプロパガンダ映画『国家の誇り』に描かれている通りです。この『国家の誇り』はいわば、擬似的なハリウッドの戦争映画なのではないでしょうか。そして、その描写を用いて今までのハリウッドがやってきたのはこれと同じですよ、と伝えているように思われます。

③タランティーノの伝えたかったこと

タランティーノは、この映画を通じて、戦争の英雄などと呼ばれている人達は、本当は、栄誉ある(=グロリアスな)人達ではなく、戦争というものに栄光などない(=イングロリアスな)のです。だから戦争なんてやめましょう。という事を伝えたかったのではないでしょうか。

また、英語とドイツ語だけが使われるこれまでのハリウッド戦争映画のテンプレ的な形を、フランス語という第三の言語を用いて破壊することにより、戦争において正義と悪の区別など存在しないという事を主張しているように思いました。

最後に

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。もっと賢い文章を書けるようになりたいものです。

さて、今回のまとめですが、過激な暴力描写を用いた戦争映画を反戦映画に仕立て上げるというのは、そう簡単なことではないと思います。しかし、それをやってのけるのが"奇才"クエンティン・タランティーノという人物なのだと思います。

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