フィルム撮影と「映画の死」

 こんにちは。

 今回の記事では、フィルムによって映画を撮影することと「映画の死」についての考察を行います。近年、映画の撮影はフィルムではなくデジタルカメラを用い、編集時にCG等を組み合わせるといった方法などで行われています。制作過程はかなりデジタル化されているということです。

 しかし、その一方で近年の洋画界を代表する監督であるクリストファー・ノーランやクエンティン・タランティーノなどがフィルム撮影にこだわっているという事実があります。彼らがそこに拘る理由は何なのでしょうか。

 なお、この記事ではクリストファー・ノーランの監督作品である『プレステージ』のネタバレを含みます。個人的には絶対に何も知らない状態で観た方が楽しめる作品になっていると考えているので、未鑑賞の人は読むとしても第一章までで中断することを強くお勧めします。というよりは、観ていないと何を言っているのかさっぱりわからないと思うので(これは私の文章力不足のせいですが)読んでもあまり面白くないと思います。

タランティーノと「映画の死」

 まず、タランティーノの言う「映画の死」について考えましょう。2014年、第67回カンヌ国際映画祭においてタランティーノが監督した二本目の長編作品『パルプ・フィクション』のパルムドール賞受賞20周年記念上映がされるなか、タランティーノがとても興味深いことを言っていました。

 「デジタルプロジェクションやデジタルシネマパッケージっていうのは、僕が知るところの映画は死んだも同然と思っている。」
 「デジタルプロジェクションなら公共テレビとなんら変わらない。」

 タランティーノによるこの発言の意図として考えられるのは「映画が映画たる所以をその固有性に見出している」ということです。

 映画が映画たる所以とは、一言で言うならば映画館で映画を観ることです。そして、それが映画の固有性でもあります。

 2015年に公開されたタランティーノの長編8作品目『ヘイトフル・エイト』は「ウルトラパナビジョン70」という装置によって撮影されました。この装置は、簡単に言うならば人間の網膜と同じ角度で湾曲したスクリーンに投影する上映方式を、本来ならば三台のカメラが必要なところを、一台のカメラで実現することのできる装置です。

 『ヘイトフル・エイト』という作品は古典的な西部劇です。これを旧式の技術を用いて撮影し、その映像をスクリーンを通じて上映することで観客はタランティーノが観てきた60年代の西部劇を観ているような感覚や、スマホやタブレットで視聴することでは得られない経験を観客に植え付ける狙いがあったと考えられます。そして、それ以上に大量生産と大量消費が行われる娯楽としての映画ではなく芸術作品としての映画、すなわちタランティーノを映画の世界に引きずり込んだ映画たちを疑似的に観客に追体験させることで「次世代のタランティーノ」を作り出そうとしているのではないかとも考えられます。

フィルム撮影とノーラン

 前述した「大量生産、大量消費が行われる娯楽としての映画」についても考える必要があります。制作過程のデジタル化が進んだ映画は、デジタル技術によって一度撮影されたものが完璧に複製されます。これにより大量生産と大量消費が可能になっているのです。フィルムアーティストのパオロ・ケルキ・ウザイによると、これは映画の固有性に反するものということになります。

 ウザイは、映画の固有性はフィルムの劣化作用に基づいた自己破壊的性質にあると考えています。映画は映画館での映写によってメディウムとして存在することができる一方で、フィルムは時間の経過とともに劣化し、ほこりや油などで汚れてしまいますがそれを避けることはできません。上映という行為はそれを繰り返すことでフィルムを死に近づけるある種の自傷行為だとしているのです。

 それと同時に、ウザイはその劣化の起こり方がそれぞれのフィルムによって異なるというフィルムの性質から全く同じ上映が存在しないこと、その意味において映画は複製芸術ではなく反復芸術であるとして理解されると考えているのです。

 これにより、劣化によってフィルムが使えなくなる過程までが芸術作品としての映画であり、フィルムが使えなくなることで映画が芸術として完成するのではないかと考えられます。

 しかし、デジタル技術によって撮影され、上映される映画は全くフィルムによるものとは異なり全く同じ上映を多くの人が経験することになります。これは複製芸術であると考えるべきでしょう。

 ここで、クリストファー・ノーランの監督作で2006年に公開された『プレステージ』のワンシーンを取り上げて考えましょう。

 『プレステージ』は、二人の奇術師が人間瞬間移動というマジックをテーマにして競い合う物語でしたが、その中で大量のシルクハットが何かのメタファーであるかのように映し出されます。そして、物語の中盤でそれらが複製されたものだということが分かります。

 ノーランもタランティーノと同様にフィルム撮影に拘る監督であるということから、この大量のシルクハットの描写はデジタル撮影が主流になっている映画界において、デジタル技術を用いて制作された作品を暗示しているのではないかと考えられます。そして、そのような複製技術を用いて人間瞬間移動のマジックを完成させた主人公の一人(名前はアンジャーです)が最終的に死亡することから、ノーランはデジタル撮影は映画界には不要なものだと考えていることがうかがえます。

 母体が一つ存在すれば、無限にその複製品を作り上げることができる。それは、映画に置き換えて考えるとデジタル技術によって一つのデータから無限にその複製データを作り上げることです。一見するとフィルムについても同様なことが言えるように思われますが、フィルムは、上述のようにそれぞれの劣化の仕方が様々な要因によって異なっているため、全く同じものは存在しえないのです。そのため、フィルム自体がある上映の再現不可能性を有しており、そこから観客が観賞した一度きりの上映という経験が導かれ、最終的にその上映およびそのフィルムに固有の価値が見出されるのです。一点ものとしての価値が直ちに芸術的価値といえるかについては議論のあるところだとは考えられますが、フィルムごとに異なる状態で上映がなされているということが、そのフィルム単体の価値を構成するものであることには変わらないでしょう。『プレステージ』においてアンジャーは、母体となっていたものを処分することで永久的に一点ものとしての価値を保ち続けたことから、何度瞬間移動マジックを行っても、大衆から飽きられることなく偉大な奇術師だと認識され続けていたのではないでしょうか。

 ここまでの話をまとめると、『プレステージ』においてノーランはアンジャーという人物のマジックをその複製という共通点からデジタル映画に見立てており、彼を最終的に殺すことで近年のデジタル化された映画製作過程を批判的にとらえていることを表していると考えられます。

最後に

 最近に限った話ではありませんが、映画が商業的な娯楽物として消費されるようになってから効率よく、大衆に広く受け入れられる作品を制作しようという流れは顕著になっていると考えられます。それもあって現在のような映像技術の発展を導くことができたのは事実でしょう。しかし、タランティーノが言ったように、デジタル技術に頼りすぎていてはそれはテレビ番組との差異がないし、極論ではありますが映画として制作する必要はないのです。

 また、最近特に目立つのはネットフリックスやアマゾンプライムといった動画視聴サービスの発展です。これらのサービスはオリジナルのドラマや映画を製作するにまで至っています。たしかに、いつでもどこでも好きな作品を好きなように観ることができるというのはこの上なく便利なものです。しかし、本来、映画はスクリーンで上映されることを前提に作られています。第一章で述べたような「ウルトラパナビジョン70」のような技術は、スクリーンで上映されることによってその本領を発揮するのです。スマホやタブレットのような小さい画面で観賞することを前提にしているのは、それこそネトフリのオリジナルドラマなどでしょう。

 さらに、こうしたサブスクサービスの展開が人々を映画館から遠ざけてしまう可能性はあります。わざわざ自分から赴かなくても、少し待てば映画の方からサブスク契約している人たちを訪れるのです。こうなってしまうと映画館自体の需要が減少し、スクリーンに映し出すことを前提とした映画撮影を行う必要性も少なくなってしまいます。結果的には、映画産業全体の衰退につながりかねません。そして最終的に映画という芸術や産業は死を迎えるのです。

 タランティーノやノーランがいまだにフィルムに拘って撮影しているのには、映画人としてセルジオ・レオーネやアルフレッド・ヒッチコックらがフィルムを用いて制作した映画によって育てられたことから、自分たちもその技術を後世に伝えて次世代のタランティーノやノーランを生み出そうと必死に世の中の流れに抵抗しているのが理由の一つかもしれません。そして、彼らを生み出した映画という芸術の死を避けるための闘いを展開しているとも考えられるのではないでしょうか。

参考文献

中路武士著『デジタル技術時代のフィルム作品』

河原大輔著『映画の死亡証明』

(注)いずれの文章も『ユリイカ令和元年9月号 特集=クエンティン・タランティーノ―『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の映画史―』による

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?