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他人の思想に委ねる世界は楽しいか?

自分は人の話を黙って聞くことが多い。無言の人間である。
ただ、黙って聞いているときは相手が何を考えて表現しているのかを読み取っている時間でもある。対人コミュニケーションは人並み程度の経験しかなく、読み違えてリアクションすることもある。こちらの表情や仕草に表現されて、相手は違和感を覚えて、最終的な主張が変わってしまったこともある。それは、この協調を求める社会では間違いだと思っていた。

この会話という行動に正解はない。人間のベーシックな機能が毎日、毎時、毎秒どこかで行われていて、膨大なデータが数万年にわたり蓄積されつづけても正解が出ない。このベーシックな機能は戦争を引き起こしたり、社会を形成したり、いまでは医療従事者を励ましたりしている。

四谷三丁目さん、という方が書かれた文章を読んだだろうか。

彼女は医療従事者であり、今回の騒動についての主観的な記録を残した。彼女は怒りを伝えた。怒りが文章になると不平不満や愚痴で終えてしまうことが多いが、彼女はとても怒った。問題提起、読者へ「怒りたいことは声をあげなさい」とメッセージを伝えた。結構な強さで。

自分自身、恥ずかしいがこの文章を読むまで怒りは感じていなかった。いまでも自発的な怒りではないが、氏の手記を読むことで『ああ、怒っていいんだ』と思えたのだ。

ここ10年ほど、身近なひとたちと会話するときでさえ感情はなかった。
なぜなら、自分の感情は相手の話の筋を曲げてしまうから。
話の途中で眉をひそめて腕を組めば、相手の論旨が逃げると思ったから。
会話はつまらなかった。ことを荒立てたくなかった。できれば、どうでも良い会話に相槌をうって、時間を短縮してはやく自分の時間を取り戻して、本を読みたかった。コミュニケーションなんて、会話なんて、おこがましいくらい聞いているだけだった。そう社会で学んでしまっていた。

そんな自分が四谷三丁目さんの記事を読んだときに「どこかのだれかが怒ってるなー。こんなエネルギーよく出せるなー。」という遠い人の話ではなく、『この人は怒っている。自分は当事者ではないが、共感できるし行動に移そう』と感じた。
四谷三丁目さんは自分と違う。怒っている。自分は怒っていないが、あなたの怒りがわかる。だから、なにか解決したい。自分も一緒になって怒るのではない。相手を理解して、行動しようと思った。

自分の主張は余計なことではない。相手の主張は受け入れて、自分の主張は持ち続ける。持ち続けるというのは、口をつぐんで待つことではない。
相手に、『自分はあなたとは違う。ただ、自分はあなたを受け入れる。』という姿勢を見せることだ。

この10年で、社会の中で「お前の主張は間違っている」という態度で対峙されることに慣れ、疲れてしまっていた気がする。
しかし、間違っていると言われても、それは間違っていない。数十年生きてきたそれぞれの電気信号がたどり着いた情報なのだから、間違っていない。

もしあなたが誰かと対峙したときは、受け入れてみてほしい。「自分が正しい」と「あなたは正しい」は二律背反ではない。同時に成立する。そこから2つの意見が先に進むことだってある。その可能性を潰すのだけは無益だ。

自分はこれからも無言の人間である。ただ、会話だけではなく文字で表現することで、自分の主張を表現できる世界に生まれたことを嬉しく思う。

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