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僕を書いていくからこの最低な人生を見ろ

君は誰だ。なぜここにいる。

自分は日本に生まれて、日本に育ち、いまも病原体のせいで海外旅行にも行けない人間だ。もう遠く行けないのかもしれないと思うと、日本人としてのレッテルを深く感じ、レアな人種でありガラパゴスな発達を遂げ最終的に希少種として淘汰され展示されるようなものなのかもしれない、と思っている謙虚な性質の人間だ。

先日、初めてadoを聞いた。まるで個人の気持ちを代弁しているような歌詞が世間にウケたのは、全員がそう思っているからだろう。全員が特別な人間で、周囲より賢く、ただ社会規範から外れないように振る舞える程度の知性を持ち、そのことに対してどこか諦観の念はあるがそこから出られない羊のような気持ち。そこを大多数にウケるとマーケティングされてしまっては、凡庸たる自分は大多数ですらなくなっているのだと思う。自分のような普通な人間は、希少種のなかの希少種になっていく。そうならば、もっと敬われてもいいのかもしれない。愚かさを見せつけられるまえに、自分が愚かだと思っている馬鹿な自分はadoの描く人間すらも現代の人間の普遍的な形のように感じて、全く響かなかったのが、自分自身頭が良いふりをしているようで悲しかった。

自分は自分のことを愛する人間を信用していない。なぜなら、相手は自分を大切にしていないような人間ばかりだからだ。自分に尽くしてくれるが、それは自分という装置を通して見返りがほしいだけで、皮膚が巻かれていて目に切れめが入っており、鼻がくっついていれば、誰でもいいのである。そんな人間を自分は信用しない。
体をくっつけて、一緒にいたいとアピールされたところで、自分は独りでいいので、あの、日も落ちて寒くなってきたので、帰りませんか?と案内したところで相手が泣き始めたことがある。素直に自分の気持を言ってはいけない、と思った。遠回しにでも自分の感情を込めたふりをして、「君には自分は釣り合わないですよ、ごめんなさいね。」くらいの気を使えないのが、凡庸な人間である所以。
あと、恋愛とは容姿含め対等な関係では始まらないことも年齢を重ねて知ることができた。人間は優劣を判断し、自分より高い位置にあるものを背伸びして得ようとする。そうすると、高い位置の人間はカンダタよろしく糸をぷつりと切ってしまおうと意地悪をするのだ。そんな人間を愛した時点で、信用はできない。もっと経験を積んだほうが良い。

仕事は、仕事だけは好きなことを選んで職にした。しかしこれも間違いであった。仕事はひとりでするものではない。誰かと話し、許可を得たり、支持を仰いだり、支持を出したりする。そのたびに、どのようなコミュニケーションであろうが腹が立つ。もうこの世の終わりではないか。シャンプーのCMで「水ダメージから髪を護る」というセリフを聞いたことがあるが、そのときくらいに「そんなんだったらなにもできねーじゃん」と思っていたが、仕事でコミュニケーションを図られるたびに「うるせーバカ死ね」くらいに思ってしまう。これは精神疾患なのだろうか。実際にうるせーバカ死ねとは思っているのだが、これが表に出るとなにかと問題がありそうなので、「なるほど、そうなんですね。わかりました、そうしましょう。」と答えているが、いつスイッチが切り替わって「うるせーお前になにがわかんだよ、自分の人生生きてないくせに人様に指図してんじゃねーよ多様性考えろバーカ」と言い放ってしまうか。それが怖い。だから、好きなことは仕事にするものではない。皮をかぶって生きるのはそのほうが良い。

さて、ここで当初の問にもどる。君は誰だ。なぜここにいる。
この平均的で凡庸な人間が書いた文章に、少しでも同調を感じただろうか?
この広告化された文章があふれるnoteの記事の中で、なぜ自分の記事を選んで読んだのか。
なぜ?教えて欲しい。水ダメージから髪を護るため?

その選択があなたの個性なのかもしれないと、自分は思う。

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