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VR上の学校に通うことは、VR初心者にどのような衝撃を与えたのか。


Oculus Quest2が発売されて1ヶ月半が経った11/29に、僕は人生6度目の2週間の学校生活を私立VRC学園という場で経験することになった。そして12/12にVR上の学校を卒業した。
この文章は、VRに触れたことがない人にとっては、VRSNSの可能性を示すものであり、今入学を検討している人にとっては、私立VRC学園の魅力を示すものである。......そういう内容にするつもりだ。


VR上の学校、私立VRC学園ってなに?

私立VRC学園はVRSNSの1つであるVRChat(*1)上に設立された学校だ。学校も運営も講師も全員がVRChatユーザーであり無償(!?)で提供されている。VRChat自体、ユーザーの善意の循環が現実よりもはっきりと表れている点に大きな特徴があるが、私立VRC学園は生徒が次のタームでは講師や担任として協力を申し出たり、校章や校歌、部活、卒業アルバムまでも有志によって制作され、より一層善意の循環が凝縮された空間にだったと卒業した今思う。
当事者ではない僕が語っても陳腐なものになってしまうので、詳しくは学園長のタロタナカさんの記事を読んで欲しい。

VRChatにおいて、コミュニティに所属する、自分という存在を他者に認知してもらうためには、強い個性と能動性が求められるのでは無いかなって思うんです。それも悪くは無いのですが、もっと自然に、ラフに、ヌルッと居場所を得られてもいいじゃ無いかと思いまして、それって学校だなって。

授業を受けるという目的を共有しているクラスメートたちと、のらりくらりと時間を共にして、なんとなく放課後に出かけるとか、おしゃべりするとか。別に自分が特別である必要もないし、他者に特別であることを求めなくてもいいし。そんな空間が会ったらいいなって思って。そんな話をTIshowさん(副学園長)にしたら「あー、いいね👍」って。


そもそも、なぜ僕はVRを始めたのか

あまり難しい話はしたくないので簡単に書きたい。
現実がいよいよ厳しくなってきたからだ。
Twitterがマウント取り合戦や争いの巣窟であることは数年前から理解して使っていたからまだよかった。しかし、コロナウイルスが流行り始めてから、なぜかInstagramのストーリーでもヤバい投稿をする人が増え始めた。「上司がミソジニー!」とか「BLMに賛成しない奴は差別主義者!」とか、その主張が正しいとか間違っているとかは置いておいて、どうしてInstagramのストーリーまで争いの種が侵食してきたんだ...?
この間までみんな楽しそうにお酒飲んだり旅行の写真あげてたじゃん...。お前とインターネットやるの息苦しいよ。。。

リアルの友人たちが続々と闇落ちしていくのを見送る日々に流石に厳しさを覚え、真剣に「近い価値観や背景を持っている人と繋がっていた方が心身の健康も幸福度も高いのでは???」と考えた日にはVR機材を購入していた。


VRSNSはTwitter2になり得るのか?私立VRC学園に入学した理由

VRChatをはじめとするVRSNSは、国籍・人種・性別・職業・学歴・住んでいる場所・所属するコミュニティ、果てには自身の見た目の制約すらも取り払って自由を手に入れられるマジで最高のインターネット空間だ。
マジで最高のインターネット空間であると同時にキツい部分もあった。
全部自由で制約が無いからこそ、「仲のいい友人グループ」を作ることがめっっっっっっっっっっっちゃ難しい!!!!!

同じ人と繰り返し会うイベントが意識しないと発生しない、人気アバター使用者は使用者同士で固まりがち、初心者のころは歓迎されるけど、初心者じゃなくなった途端、輪に入れてもらえなくなる。キツい。
これも蓋を開けてみると、結構多くの人が自分のことを”コミュ障”だと思っていて「輪に入れない × 輪に入れられない」のすれ違いや、自分がリアルでは社会性から外れていた経験があるからこそ、一度コミュニティを持つとそこに固執してしまったりと仕方ないよねと思える部分もあったりする。

けれど、自分の居場所がないと精神的におかしくなるのは人間の性なので、打算的・合理的な考えや生存戦略という名の下心と希望を抱きつつ、翻ってVRSNSも息苦しいインターネットなのか...?という不安を合わせて抱きながら、私立VRC学園の門をくぐった。

ちなみに、入学前に私立VRC学園のタグ付けされたnote記事は全部読んだし、学園長と副学園長のTwitterも読み漁った。真面目か????


私立VRC学園での経験は、VR初心者にどのような衝撃を与えたのか

入学式当日。事前に配られたクラスメイト名簿には知っている人は誰一人いなかった。大勢の初対面の方と一堂に会することが例に漏れず苦手な僕は「まぁ、みんな初心者なんだろうしそんなもんやろ~」と高を括っていた。いや、そう考えることでなんとか精神を保とうとしていた。助けてくれ、理芽。救ってくれ、甘美な無法。

入学式5分前に会場の体育館へと入ると、そこにはユーザーランク(やりこみ度)が自分よりも上の参加者がずらり。あれ?初心者の集まりじゃないんですか?
あー、終わったよもうこれみんな何人か知り合いいるパターンでその輪に入れなくてしっかり除外されて詰むパターンだよ僕知ってます対戦ありがとうございました。
と内心諦めモードに入っていたら「こんばんは~」と声が聞こえる。自分に声をかけているのだろうか。続けて「せっかくのクラスメイトなんだから仲良くしましょう~フレンド送りますね!」...聖人か?

どうやら私立VRC学園には少し変わった引力が働いているらしい。
学園外では多く目にすることはない人を輪に入れるという行為が、ここでは同じ学友であるという理由だけで自然に発生する。正直「同じ所属である」という事実が、これほどまでに簡単に僕たちの間にある壁を簡単に取り払ってくれるとは思ってもいなかった。
冒頭で私立VRC学園は善意の循環が凝縮されたような場所だと書いた。
後からやってきたクラスメイトをなるべく暖かく迎え、無言勢の方のためにペンを用意したりと、少し遅れて来たにも関わらず輪に入れてくれたクラスメイトの善意に、善意を持って還元したいと自然に考えて行動していた。

入学式が終わり授業が始まってもあたたかい空間であることは変わらなかった。むしろ、クラスメイトと会う度によりあたたかく、よりはっきりとクラスの空気として満たされていく。
教室に来て授業が始まる前の5分間や放課後の30分間に交わされる雑談、ログアウトするクラスメイトに「また明日!」という声が交差する瞬間、さっきまで先生と生徒だった関係性が、授業後にはユーザー同士のふざけ合いへと変わる時間、全てが愛おしく、忘れてしまっていた感情のように思えた。参加者がみな分別をそれなりに備えた大人たちで、身体(アバター?)全身で、めいいっぱい「学園」を楽しんでいることが、この上なく平和で、逆にこの時間が「あの日々」でなかったことを寂しく思ってしまうほど、愛しくて尊い時間が流れていた。

魅せられますか?

逆に見て欲しいよ。


こんなにもあたたかい空間で、愛しくて尊い時間が流れていると全身で理解する前は、頭の片隅で苦い記憶が顔を出していた。
僕自身も学生の頃に社会性からはみ出て日々を無為に過ごしていた時期があったからだ。決定的に同級生と常識やその手にギュッと抱えておきたい信条が違ったことから、教室に居場所がなかった。休み時間の度に立ち入り禁止の屋上から景色を眺めて、自分がいる世界の小ささを焼き付けて、苦しいのは今だけだと自分を鼓舞し続けたあの日々のことを想起する。

いじめを受けたことも傍観者であったことも、たぶん加害者であったこともある。信頼していた友人が、彼にとっては取るに足らない存在であることを裏切りを以って示されたこともある。同級生との学力や運動能力の差に打ちひしがれたこともある。
仕方ないことだと分かっているが、学校という場にいい思いをした回数の方が少ないかもしれない。

だからこそ、自分に起きた心情の変化に衝撃を受けた。
たった2週間毎日顔を合わせただけ、言葉を交わす時間は授業前後の30分程度なのに、クラスメイトがイベントを開くと言えば心から応援したいと思え、クラスメイトと会える時間をこんなにも大切に、待ち遠しく思っている自分が本当に自分なのかと疑った。
クラスメイトと共にする時間を少しでも楽しいものにしようと、スベり散らかそうが笑いを取ろうと発言し、下心なく利他的に振る舞う自分は、いったいどこに隠れていたのか。これはVRを始めたことによって現れた人格なのかと混乱した。

それでも、たとえ主義主張や信条が違ったとしても、関わっていく中で苦手な側面が垣間見えたとしても、担任も含めクラスメイトと仲良くしたいと願う自分に偽りは無いのだと、「ドラえもんに心はあるのか」という問いを通して意見を交換する授業を通して確信した。欲を言えばクラスメイトにも、もし自分にそのような側面を見出しても理解して欲しいと願ってしまうほどに。


卒業の日。そしてこれから。

2週間の学校生活を経て、僕たちは私立VRC学園を卒業した。
卒業式では幅広いジャンルの授業を展開した講師や副学園長からの餞の言葉があった後、教室でクラスメイトと担任からこの2週間を振り返り言葉を送り合った。
善意の循環が凝縮された空間はこれだけでは終わらない。僕ら学園3期生の1つ前に当たる2期生のメンバーが中心となって創設された写真部が、この日のために卒業アルバムをサプライズで作ってくれたのだ。


私立VRC学園の思い出を書いていると、「休み時間の度に立ち入り禁止の屋上から景色を眺めて、自分がいる世界の小ささを焼き付けて、苦しいのは今だけだと自分を鼓舞し続けたあの日々」から抜け出した後、自分と同じような人を減らそうと決意し、どこかで友人が1人でいたら必ず声をかけていたことを思い出した。
これはエゴで、自己満足以下で、ただ昔の自分を愛撫するような行為かもしれないと考えながらも、それでも笑って欲しくて声をかけていた。子安つばめ、ありがとう...。

確かにあのとき部屋の片隅で1人で座っていた人に声をかけていたのは間違っていたのかもしれない。けれど、入学式の日に体育館に入ってきた僕に「こんばんは!」と声をかけてくれたあの瞬間、間違いなく僕は救われたのだ。
私立VRC学園に入る前から会うと必ず声をかけてくれる人たちに、僕は救われていたのだ。

そして大いに自らの行動を反省した。
VRSNSのキツイところに焦点を当てて分かった気になってはいなかっただろうか。声をかけてもらえないことに甘んじてその場に座していただけではなかったか。ワールドに入ってきた人に声をかけていただろうか。「取らんと欲する者は先ず与えよ。」を忘れてはいなかったか。


VRC学園に脈々と受け継がれていく善意の循環は本当に素晴らしい。
その循環に順応していく生徒たちもめちゃくちゃ尊い。
僕も善意の循環を回そう。
学園だけで回しているだけじゃ面白くないから、まずはワールドに入ってきた人に挨拶するところからかな。

尊い時間をありがとう。



(*1)VRSNSはSNSと呼んでいいのかという意味で諸説ある。


抹茶ラテがのみたい