見出し画像

写真を撮るのと、文章を書くのは似ている

カメラと文章は似ている。構図を切り取り、フォーカスするのだ。一枚の写真と、一編の文章は似ている。つまり、世界をどう切り取るか。だれだったか偉い写真家が、「写真を撮れなくなるのは、世界に対する驚きがなくなったとき」と言っていた。文章も、そうかもしれない。でも、「世界に対する飽き」も含めて、表現できるのが文章ではないかな?写真は、そこんとこ違うのかな?びっくりしないと、写真撮れないのか?いや、「世界に対する飽き、という驚き」なんだろうか?「驚き」という言葉に、ちょっと無理があるなァ。という名前思い出せない偉人の言葉をダメ出しする俺は何様なんだ。というか、言葉自体、うろ覚えだから、なもなき偉人になんの罪もない。話が逸れた。写真と文章は似ているという話だった。これも名前忘れたけど、カメラの雑誌で「上達するには、とにかく毎日カメラを持ち歩いて、たくさん撮ること」とあった。練習、OJTあるのみ、である。ファインダー越しに、世界を切り取る練習をするのだ。文章も似ていて。上手だろうが、下手だろうが、とにかく自分の目で世界を切り取る練習をする。だから、毎日書くのは大事。僕にとって。写真家は非言語の世界で心の奥底に潜んだモノまで浮かび上がらせるけど、僕は写真に関してはアマチュアの雑魚だから、文章で表現する。っていうか、文章だってアマチュアのポンチだろうが。偉そうにするなっ!と調子のりかけてる自分を嗜める。あと、僕がカメラ好きなのはね。1人になれるからです。家族とディズニーランド来てようが、右目で小さなファインダーを覗いてる間は、ぼくは、万年筆でノートに向かう如く、1人なのです。息子や娘や妻やドナルドダックの写真を撮りながら、僕は文章を書くように、構図や絞りや露出を、内省しているのです。写真撮ってれば、なんかタマちゃんのパパっぽく擬態しながら、ひとりになれて便利なんだ。とか言ってたら「せっかくディズニーランド来てんのに、マジお前喋らんな」と妻から叱られたのだが。でも写真は結局、いくら撮っても上手くならんな。非言語と感性と直感で生きるには、僕の脳は、あまりにも真面目で、理屈っぽく、オモロくないのかもしれない。でも、上の理由につき、好きだからカメラはいつも持ち歩いている。僕が好きなものって、なんでもそれって文章に似てるよね、みたいに言えちゃうのは、たぶん僕が勝手に理屈つけてるからで。レゴも路上ライブも、文章書くのに似ているよ。あと、僕の考え方的に、釣りって絶対好きだと思うんだ。カメラと釣りって、似てるって言うしね。あれはきっと、アウトドアで、死ぬほど内省できるでしょう。太公望が、針のない釣り糸を垂らして内省してた、なーんてエピソードも、良いねー。と思う。でもやったことないんだ。人生の中で。タイミングを逸した。別に今から始めても良いんだけど、いろいろ理由つけてやってない。新しい趣味を始めるのにはエネルギーが要る。というか、これ以上ひとりになる趣味を増やしてたら、家庭の存続がアジャパーになる。1254文字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?