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エッセイとは自慢話なのか?

日本エッセイ小史という本がありまして。歴代のエッセイについて、いろんな見解が載っている。そのうちのひとつ、帯にも書かれている井上ひさしさんの言葉「エッセイとは自慢話のことである」。さて。これは、どうなんでしょう。否定したくても、すぐには出来ない、訴求力のあるテーマです。そうなのか?確かに、書くからには、できれば、オモシロイことを発信したい。エッセイは自分のことを書く以上、オモシロイことを書いたら、自己PR、自慢話に直結してしまう。上手く立ち回ったエピソード。独自の世界観。食ったうまいもの。しょんぼりした反省文でさえ、謙虚で己を客観視できる私をアピールしている。だから、エッセイは自慢話だというのである。ちなみに、エッセイは自分の中のことを書くこと。コラムは自分の外のことを書くことらしい。ふーん。なるほどね。僕は年中、自分のことしか書いてないので、ここに書いてるのは、どっちかって言うと、エッセイに近いってことだ。じゃあ僕は毎日、ここで自慢話してることになる。そうなのかなァ。自慢話かなぁ。そういわれると、釈然としないことろがあります。だって僕は、自分で自分と飲み会してるだけなんだもの。自分に対して、自慢話って、できない訳で。そこにはただ、私が世界を泥臭く、読解するプロセスがあるだけです。自分が自分に喋ってるみたいな文体である以上、それを公開したとて、そこにあるのは自慢話ではない。と思うんだけど。どうなんでしょう。自分で世界を前向きに捉える練習、折り合いをつけようとしてる訳で。生み出された言葉が、自慢話と括られてしまうのは、なかなか息苦しいじゃないですか。前も書いたけど、大谷翔平がエッセイを書いたらめっちゃ売れるでしょう。そこに書かれた大谷翔平の言葉は、自慢話なのだろうか?そう捉える人もいるかも知れない。成功者の言葉は強いからね。そうゆー意味では、僕みたいな場末の魑魅魍魎の一匹においては、自慢話するアレもないのであるが。でも、有名人のエッセイであってもですね。そこに何が書かれてるか知りませんけど。自分と世界を、言葉で繋いで、折り合いをつけてって、結果幸せになったプロセスを「自慢話」と括ってしまうのは、すこし寂しいと思いますけどね。まあ、公開せずに1人で紙に書いてろって言われたら、そりゃそうなんだけど。でも自分の言葉を、世界の空気に触れさせるのも、大事だと思いますけどね。手書きノートからnoteに切り替えた僕の実感としては。そう思うです。そもそも、高校生からノートを何冊も真っ黒に書き潰してきた僕としては「エッセイ」なんて、お洒落でお行儀の良い語感のブツを生産してる自覚は無いのであるよ。葛藤と自意識に埋め尽くされたボロボロのノート。あんなもん、絶対エッセイじゃねえ。そんときから書いてる内容が変わんないから、これもエッセイではないと思われる。なんでもいいけどさ。1195文字

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