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エッセイストになれない

自分にやりたいことはあるのか。条件反射で「文章を書きたいです」と言ってしまう。本当か。先日書いたように、いま会社で文章を書く仕事を得られてるわけだが「これじゃないんだよなァ」って思ってしまう自分。言われたことをお行儀よく書くんじゃなくて。好きなことを書きたい。小説、読むのは好きだけど、1行も書けない。台詞が書けないし、キャラクター(とくに女性)の作り方がわからないし、ストーリーも考えられない。政治、経済、哲学、歴史など、専門的な学術文書も書けない。評論もできない。でも文章を書きたい。じゃあどんな文章を書きたいかって、こんな文章です。だから、大学生の頃は、「エッセイストになりたい」と思っていた。でも、エッセイというのは「誰が書いたか」が大事なんです。僕も社会人15年くらいやりながら色々考えたので、ソレくらいのことは理解る。本業ありきの世界なんだ。凄い人だから、その頭の中を覗きたくなる。需要が生まれる。大谷翔平のエッセイは、売れるでしょう。エッセイストは、分筆家でなくてもいいのです。本業で、すごい人になれば、文章を書くだけで、エッセイストになれるのです。だから僕は、エッセイストをやりたいなら、文章を書く以外の本業も持ち、社会的にセイコーしないといけないのです。文章を書きたいという意志が、くるりと回って、文章書く以外のことしなさい、と僕に言ってくる。これが、なかなか解決しない。別に、ブックカフェもやりたくないし、本屋にもなりたくない。人材コンサルにもなりたくないし、社長にもなりたくない。ただ文章を書きたいんだけど、ソレだけで生きてくって、無理だなァと20代で悟って、あっという間に37歳。「文章を書くように仕事をする」ことは出来るので、15年間、自分なりの「文脈テク」的なもので飯を食ってきた。見えてる景色を言葉にするように。1行書いて、次の1行を書くように。状況を掴み、作っていく。文章なんて1行も書かなかったけど、下手に「お利口に文章を書く仕事」より、余程、自分らしく働けてる気がしてたので別に文章書かなくていいな。って思えた。でもも。自分がホントーにやりたいことってなんだ。と思えば、やはり文章を書きたいのであった。万年筆を買って、ツバメノートに書きなぐり、noteを始めて毎日投稿している。これでいいじゃん。と思うときもあるけど、やっぱり、ときどき、自分と現実が、ズレている気がする。ズレていないと思うとき(時期)もある。そーゆうときは、文章を書くように仕事したり、生きたり、出来てるときだ。でもやっぱり文章書くって、楽しいな。文章を書くように、ではなく、やっぱ文章を書きたいな。と思うようになる。定期的にめぐりズムしてくるこの感覚に対して、最適解がいつまで経っても出てこないが、その模索してる感じが、人生のモチベーションになっている気がしないわけでもなくもない。結局文章というのは手段、道具、乗り物、であって。自分が何者かになっていないと、伝えるべきものがないと、言葉だけ持ってても仕方がないのだ。でないと結局、自分のための文章しか書けない。まァ自分のために書くことが、僕にとっての文章の本質だから良いんだけどね。でもね、、と思考が朝から回転するだけなので止める。明日から仕事だ。1353文字

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