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あんまり自分の文章を読みすぎると、化け物になってしまうのではないか。

noteに文章を書くと、ケータイからいつでも自分の文章を読めるわけで。トイレでも、会社でも、いつでもどこでも。スマホ1台あれば、自分の書いた文章が読める。便利な時代だ。まぁガラケーのインフォバーでmixiやってた15年前から、そうだったけどね。いいねが付いたとき、アクセスが伸びたとき、ついつい、該当記事のリンクを押して、自分の記事を再読してしまう。手書きのノートでは、こうはいかないですよ。黒黒埋め尽くされたデスノートみたいなヤツを会社とかで開いてじっと読んでると、周囲の目を引くし「なに読んでんだ…?」と覗き込まれた日には、そこに書いてあるのは極めて個人的なハズカシーことだったりして、キャッ!とノートを閉じてしまうであろう。電車の中とか、トイレの中とか、会社の休憩時間に、自分の黒黒埋め尽くされた手書きノートを開いて、じーっと、自分の文章を読んでる人間がいたら…ちょっとヤバい感じではないだろうか。でもね、今、僕がケータイで、やってることって、そーゆうことでしょう。本質的に、何も変わらないでしょう。みているのがアイフォーンの画面であっても、表示されているのは僕の文章で。少しね、マズイんじゃないかと思いました。自分の文章は、あくまで書くものであって。アウトプットすることが目的で。読むことが目的ではない。少なくとも手書きのノートを書いてるときは、読み返すことは、あんまりなかった。書き捨てるというか、気持ちを言葉に落とすだけで満足。そんなに振り返るものではなかったのだ。それがスマホの画面になった途端、自分の文章をマメに再読するようになるのはヘンだ。アウトプットした自分の言葉を再度インプットしている。それはまるで子宮の中で己の小便を飲む胎児の如し。永久機関が爆誕している。自分の小便を飲むことに、その循環に価値はあるのか。たしかに、自分の書いた文章って、共感できるんです。そりゃ俺だからね、当然なんだけど。再読することで、頭の中に文章が更に定着して、言語化が捗ることもある、ことはある。文章の改善点がみつかって、成長につながることも、ないことはない。共感できるし、新たな発見もあるし。まあ、自分の文章を読むのって楽しいんだけど、やっぱりちょっと不健康でグロテスクで、危険な面もあるよねェ。当然、自分の文章を読んでる時間が増えると、人の文章読んだり、その他インプットは減るわけで。そんな、自分の小便を飲み続けて、自分の箱庭を再反復してたら、ファンタジーの世界に生きる、化け物が完成してしまうのでは、ないかね。自分のやってることの本質を一度考えたほうが良いと思いました。自分と向き合うのも大事ですけどね。それは書いてる時間だけで充分、としたい。書いたら終わり。インプットするものは、自分の外に探しにいこう。読みたい本もいっぱいあるのだ。1171文字


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